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「私なんかが」と思わないで話しかけてほしい、時間尊重と自己肯定感

ライターズドキュメント

自己肯定感というのはなんでしょう。「自信」のようでそうではない、似て非なるものと言えるでしょうか。どうして自己肯定感なんてものが注目されるようになったのか。専門的な分析は専門家にまかせて、私が個人的に思うところは、「時間の社会的価値の格差」がひろがったから。

たとえば社会人のマナーとして、じぶんより老いてる偉いひとの時間を奪うことはタブーとされています。その根拠は、じぶんより老いてる偉いひとの時間のほうが組織的価値が高いからです。納得するしないにかかわらず、年功序列の社会ではそういう年寄り尊重のしきたりが愛されているため、優秀な若手が酸欠寸前になっていますね。

こういった社会人の掟は家庭にも応用されることがあって、たとえば「親の話を聞きなさい」と時間を奪ってくる親が、子どもの話をおなじだけの熱量で聞いてくれるかというと怪しい現状がそれとなく知れ渡っています。学校でもおなじですよね。「先生」「先輩」「顧問」が、「生徒」「後輩」「部員」の話を熱心に時間とって聞いてくれるなんて夢のようです。

だれが悪いとかではなくてそういうシステムになっているので、そのシステムが内面化されちゃっているひとがたくさんいます。つまり、そのシステムじゃないところでもそのシステムを勝手に自動でやっちゃう(相手にも自然と要求しちゃう)ということです。「じぶんは偉いから遅刻してもいい」とか、「じぶんは偉くないから相手の時間を奪っちゃいけない」とか。

この年功序列における時間相対価値システムをみんなが内面化すればするほど、会社や学校で偉いひとはじぶんのことを偉いと余計に思い込み、会社や学校で偉くないひとはじぶんのことを偉くないと過度に思い込むようになります。ここが私の思う「格差のひろがり」ですね。

世の中、システムに巻き取られているひとがおおいはずなので、「じぶんの時間には価値がない」という否定感がうごめき、自己肯定感が底ぬけているような状態なのではないでしょうか。

この世界を急激に急進的に変えることはできませんが、ラゴングラネでは、そういったシステム都合の時間価値については不問です。言い換えると、あなたの時間の価値はあなたが決めていいし、同様に、私の時間の価値も私のほうで定めます。肩書きも、序列も、時給も年収も、名誉も関係なし。それぞれがラゴンと関わるときの時間の価値をじぶんで定めてよくて、それを決めつけられることなく、否定されることもない。

つまり、ここはラゴンの備考を書くところでもあるので、あえてことばにするならば、「忙しいあいさかさんの時間を奪ってはいけない」などと考えないでいただきたいということです。

私はあなたの話が聞きたいし、おすすめの本や映画があればたのしみたいし、執筆の相談事があれば意見交換したいです。常に常に常に同志を探しているし、話してみないと同志かどうかなんてわかりませんし。雑談のなかに豊かなヒントが隠れているし、恋人との惚気話には癒されますし。質問だったらDiscordの公開チャンネルでやってもらえればほかのひとの情報にも直結します。

私がだいたいふだんから忙しそうにしているので、価値をアピってるように見えていたらほんとうにすみません。ほんとうに手一杯なだけで、どちらかというと無能アピールに近いです。私がSSR級のアビリティを持っていたら、たぶんぜんぶ片付いているので。「これとこれとこれとこれとこれが無能なので終わらない」と書くとほんとうに無能っぷりが前面に出てしまうので、自尊心のために「忙しい」とお茶を濁している感じです。

もちろん、時給5,000円の仕事をしていて反吐まみれのときもあります。その仕事をしているあいだは、すこしぐらい時間の価値がわかりやすいかもしれません。で、じゃあ、私はその時給5,000円の反吐とともに死にたいかといえば思いっきり否です。

「だれだれの時間は貴重だ」というシステム的発想で相手を決めつけるとき、その根拠となっているのは、時給5,000円で労働している社会的瞬間の切り絵です。そこに反吐は写ってないでしょうし、惚気話に癒されている姿なんか排除されているはずです。

ことばの上では「貴重だ」とリスペクトしているようでいて、実は安易に(自動的に)決めつけているだけなんですね。社会やシステムにじぶんの時間の価値を下げられて、自己肯定感が下がっていくと、相手の時間についても決めつけをしてしまうと思います。

結論ぐらいはわかりやすく書こうと思います、つまり「私なんかが」という思考をしなくてよいですからね、という記事です。自分の時間も、他人の時間も、かんたんに決めつけたりしないで、まずは話してみるところからはじめたいです。自己肯定感(じぶんの時間価値の尊重)は、相手肯定感(相手の時間価値の尊重)にもつながっていくはずです。

おたがいシステム的な自己検閲なしで、ゆったりと肯定感を持ちながら話せたらうれしいです。

参考書籍

The pattern of people’s lives is a track based on how one’s attention has been formed and how it has been warped. Forms of attention are exactly the outcomes of education and culture themselves. People always grow. What increases and elevates one’s attention are the proprieties that people show against alien things. It’s hard to take in new stimuli and to work on it. Watch for censorship. However don’t forget it – the censorship that lurks in the depth of society and in one’s personal life is, “self”-censorship.

人生のパターンというのは一筋の軌跡で、その跡はじぶんの気になることがどのように出来上がって、どのようにゆがんできたのかを辿ってきている。なにを気にするようになるのかはまさに教育と文化それ自身の事跡で、ひとは常に育つものである。おのれが気にできることを増やしたり広げたりするものは、異質なものに対して示す礼儀である。あらたな刺激と出会うこと、そしてそれに取り組むことは簡単ではない。「検閲」をよく見張っておくこと。とはいえ、覚えておいてほしいのは、社会の奥深くあるいは個人の生活に身を潜めている検閲、自己検閲だ。 Susan Sontag “The Territory of Conscience”

Written by Aisaka, Chihiro
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