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僕らはもう一度、生活を取り戻せるはずだ。

世の中少しずつ変わってきた。
みんながみんなじゃないけど、リモートワークで会社に行かずとも自宅で仕事ができるようになったし、家事代行サービスが普及したおかげで、いそがしくても家の中は綺麗に保てるようになった。

インターネットや、高性能なスマホや、多種多様なアプリのお陰で、僕らの世界はどんどんいい感じになっている。無駄は削ぎ落として、豊かな生活をするのだ。

生活ってなんだっけ

思い出せないことがある。思い出せないことなのだから、たぶんそれを僕は「知っていたはず」なのだ。生活って、なんだっけか。暮らしって、どこにどう存在するんだっけ。幼い頃は、生活がまわりにあった気がする。母はご飯を作ってくれた。洗濯もしてくれた。僕もたまに手伝った。父が休みの日に出かけたり、外食をしたりした。学校に行けば、給食がでた。毎日だいたい同じくらいの時間に寝た。でも「それ」がいったい「何」だったというのだろう。今と違うことといえば、遊ぶ時間があって、つまり暇な時間があって、僕は何かしらの暇つぶしや遊びを見つけては、それをしていたということ。

いそがしい時期は、自宅が帰ってきて寝るための場所になる。それはそれで、生存活動を行なっているという意味では生活していることになるのだろうけれど、あまり生活しているという実感には至らない。じゃあ、なにが僕に、その実感を与えてくれるのだろう? 家でご飯を食べること? コンビニ飯でも旨いときもあれば、虚しいときもあるし、自炊が面倒なときがあれば、楽しいときもあるわけだから、一概にそうとも言えない。あ、ひとつ思い出した。靴磨きだ。そうだ、最近やっていなくて忘れていた、あれこそが僕の生活なのだ。

プライベートと一体化する仕事

「好きなことを仕事にする」という昨今というかここ数年間流行りの定言は、ときに宗教のようにもてはやされ、ときに極悪犯罪組織のように罵倒され、しばしば「仕事にするべきは好きなことではない、得意なこと、やっていて苦にならないことを仕事にするのだ」とマイナーチェンジして主張される。かくいう自分は、好きな仕事をしているほうだと思う。そりゃあ愚痴のひとつもないわけではないけれど、仕事はだいたい楽しい。僕自身はフリーランスだけど、中長期のプロジェクトにあたってのチームプレイもやりがいがある。

仕事を楽しんでいると、プライベートと一体化してくる。デザイナーの友人は、休日に街にでかけては「つい」リサーチをして帰ってくる。僕も僕で、いつのまにか出先で名刺交換していたりする。プライベートから始まった関係が仕事になっていくことは、今を生きるフリーランスたちにとって、友達から恋人になるよりもずっと容易いことのように思う。

家に居てもそうだ。曜日はあまり関係ない。仕事が入ってきたら対応するし、体調が悪かったりして気が向かないときは、積極的に休む。おやつを食べたかと思えば仕事をしているし、おやつを食べながら仕事をしていることもある。 9時出勤17時退社の仕事は、一時限目から五時限目までの時間割がある学校に似ている。決められたことに、決められた時間のあいだ、(ほどほどに)集中して取り組んで、それが終わったら「プライベート」の時間になる。別にそれが悪いわけじゃないし、むしろ、区切りがはっきりしている分、今この文章を書きながら、僕が探している「生活の実感」は得やすいのかもしれない。プライベートと仕事の区切りが曖昧な人間は、どこからが自分のための時間なのか、わからなくなる。そう、自分のための時間。僕にとっての靴磨き。サラリーマンの帰宅後のビール一杯。生活というのは、ほかの誰でもない、自分のためだけの時間のことを指している。

現代的効率化の欠点

出だしの話に戻るけど、僕らの身の回りは、どんどん良くなっている。良くなっている、というのはこの場合、テクノロジーの発展により、生産効率や処理能力が上がっていることを言っている。

Googleのサーチエンジン、Amazonのバーチャルダッシュ、Apple Watchがあれば改札も通れるし、買い物だってできる。いろんな手間が省けて、楽になる。なんだかすごーくいいことのように思えるし、実際どれも便利だし、一度この便利さを知ってしまったら、もうこれらなしでは暮らせないような気さえしてしまう。

で、便利になったはいいのだが、僕はなにがしたいのだろう。空いた時間でしていることといえば、仕事、仕事、たまに休憩。また仕事。いや、仕事は好きでやっているし、お金も入るし、いいことはずだ。でもやっぱ、どこかで一定の量を越えると、疲れてくる。それも、じわじわ疲れてくる。そしてぼーーっとした頭の片隅で、僕は思う、「生活がしたい」。

産業革命の後からずっと、人類は機械への価値観を自分自身に当てはめてしまった。みたいなのは、先週読んでいたエーリッヒ・フロムの『あいするということ』というポエティックな哲学書に書かれていたことだが、実際そうだと思う。短い時間でより多くを生産できる人間、結果を出せる人間が求められるし、お金を稼ぐことができる。お金を稼げるというのは、この資本主義社会において最高の評価で、それは自己をも満たす。はずだった。

けれど僕らはわすれてしまったのだ。どうして効率化したかったのか、どうしてお金を稼ごうと思ったのか。それは自分の心身を満たすためではなかったか(もちろん、家族や養うべき人がいれば、お金を稼ぐことはその人たちへの責任でもある)。

「ほんとうにやりたいことを見つけろ」という巷に溢れたあの陳腐な言葉は、君の行動は形骸化していないか?という問いかけのかたちにするほうが正しいのかもしれない。僕らは、効率化し、生産し、成果をあげ、表面上の満足を得て、いつしか疲れていく。

仕事がどれだけ楽しくても、ときに(身体だけでなく精神が)疲れてしまうのは、それがどこまでいっても社会的な行為だからなんだと思う。仕事をする以上は、人と関係し、利害があり、責任がある。他を意識することは、根本的にストレスなのだ。必ずどこかに、気を抜けない部分があるのだから。

誰のためにもならないことをしよう

さあ諸君、今こそ生活を我らが手中に、取り戻すのだ!

――と威勢よく言ったはいいが、たいしたことをするつもりじゃないし、たいしたことであってはならない。自分のために、自分のことをする。それは必然ではないほうがいい。たとえば、仕方なくご飯を作るとか、眠いから寝るとか、そういうことではないほうがいい(だから、靴磨きがいいんだって、さっきから言ってるじゃないか)。

誰のためにもならないけれど、自分が自分のためにできることをする。たぶん、それが僕らに、生活の実感を与えてくれる。時間だってかけなくてもいい。自分が焦らないだけの余白が確保できればいい。朝のコーヒーの1杯、食べたいよりも作りたいから焼くケーキ、弾けないギターを弾く時間。それは、誰にも求められていない。やらなくても、誰も困らない、なんなら、自分さえも困らないことだ。でも、していることで、心地よくなれること。そんなもの。世界にとって、君の仕事相手にとって、友人にとってもどうでもいいこと、そんな生活を、僕は、僕らはもう一度、取り戻してみたい。

Written by Kadekawa Mizuki
Copyright LagonGlaner and Author

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