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マスクは下着なのか? - 礼儀正しさとしてのマスクを考察する

 マスクをつけるべきかとるべきか――日中の気温が上がって、蒸し暑くなって、だんだんとマスクにまつわる葛藤があらわになってきた。マスクはとにかく暑い! 口の中でむわっとする。きつい、取りたい! ――でも。

 新型コロナウィルスの脅威はまだまだ終わってはいない。全国的な緊急事態宣言は、五月末で解除されたものの、東京では相変わらず、新型コロナウィルスによる感染者は増え続けているし、非常に辛いことであるが、今だに多くの人が亡くなっている。楽天的に、「マスクやだよねえ」なんて愚痴を言うのは、まだまだ先の話である。
 今は――辛抱してマスクを付けなければならない。――が、しかし、やはりマスクは暑い!

 ところで、欲望を解放することと、欲望に素直になることは次元が違う。 前者は例えば、新型コロナウィルスで苦しんでいる人の前で「マスク嫌だ~」と、欲望を吐き出すことを意味する。これは、どう考えても倫理的ではない。
 もし――私が新型コロナウィルスで苦しんでいて、目の前に、健康的な人間が出てきて、「マスク嫌だ~」と言っていたとしよう。私は、きっとすこぶる気分が悪くなるだろう。「お前は、新型コロナウィルスにかかっていないから、そんな能天気なことが言えるんだ……」と恨みが募って、ツイッターに書くかもしれない。いや確実に書くね。それに――病状は悪化すると思う。ストレスで。
 ――そういうわけで、健康な方には、それなりに配慮が必要である。自分が健康で居られるのは、誰のおかげなのか。

 一方で、欲望に素直になることは、必ずしも悪いことではない。
 もし、マスクの中に熱気が立ち込めて、息がしにくくなったり、あるいは蒸れて唇の周りが汗だらけになった場合、「マスク嫌だ~」という感覚は、ある種、「事実」である。事実なんだからしょうがない。
 事実を例えば、ねじまげたり、否認し続けるのは、生きづらさにつながる。「マスク嫌だ~」って思っているのに、「マスク楽しい、好きぽよ!」なんて、言葉を重ねていたら、多分いつしか、自我が崩壊するだろう。自分が汗まみれになっていて、頭がくらくらしていても、「アア、熱中症、楽しい~!」なんてことを言っていれば、間違いなく救急車案件である。
 TPOに合わせて欲望をしまい込むことは大事だが、欲望を否定することは必ずしもいいこととは限らない――これが、欲望を解放することと、欲望に素直になることの違いである。
 そして――今回の記事は、欲望に素直になることの記事である。この時期――「マスク嫌だ~」の気温になりつつあるこの時期に、マスクをどう考えるべきか。

 六月になって、緊急事態宣言が解除されたときに、スーパーに、「緊急事態宣言が解除されたんだから、マスクを着用して客の応対するのはおかしい!」というクレームがきたというツイッターのつぶやきを見た。
 ツイッターなので、真偽のほどは定かではない。しかし、四月五月の新型コロナウィルス騒動における、大衆の奇怪な行動のいろいろのことを考えると、至極不思議だが、そういう客がいるだろうということは納得できる。というかまあ――新型コロナウィルス以前は、マスクでの客の応対は、どうしてか「失礼」だと言われることが普通だった。今でさえも、「※新型コロナウィルスによる影響への懸念から、店員もマスクを着用しています」という但し書きが、店の入り口に貼られている。しかし――なぜ、マスクは「失礼」なのか?

 表面的なことを考えてみよう。マスクとは、顔の表面にある呼吸器官――鼻、口――の前にフィルターをかけるための布のことである。基本的に、人間の息は、細菌にまみれている。風邪を引いていればその風邪の原因の菌が、新型コロナウィルスに苦しんでいれば新型コロナウィルスが、息に交じって噴き出される。
 そうでなくとも、今朝食べたスクランブルエッグの残り滓とかが、口から吐き出されたりする。唾は当たり前のようにして飛ぶ。――マスクはそれを防ぐためのフィルターなのだ。
 あるいは、外界に浮遊している菌やウィルスから身体を守る役目も負っている。マスクがフィルターになることで、鼻や口から入ろうとする菌やウィルスを防ぐ。そういうわけで、マスクは衛生管理において、非常に大きな役割を担っているのだ!

 そんな大役を任されているマスクが、なぜ「失礼」に当たるのか? むしろ、マスク本来の機能を考えれば、マスクを着用しない方が失礼ではないか。マスク未着用が、朝食べたスクランブルエッグの残り滓や唾を相手の顔に振りかけることと同じだということを考えたらいい。どう考えたって、失礼でしょ。
 これでもまだ、マスク着用は「失礼」だということになるならば、なにか大いなる力が、マスクには宿っているに違いない。人を「失礼」にさせる力が! それはなんだ? ――多分、マスク着用の際の、「距離感」の表われ方に関係があるのかもしれない。もう少し――思考を先に進めてみよう。

 「失礼」の語のうち、「礼」を抜き出して考えてみよう。辞書には頼らない。とりあえず、私たちが「礼がある」――あるいはもっと日常語に翻訳して「礼儀正しい」という言葉を使うときのことを想像してみる。
 「彼は礼儀正しい」というとき、「彼」はどんな振る舞いをしているだろうか。例えば、敬語を使っているときは礼儀正しい。おすそ分けした時に、「ありがとうございます」とお礼を言うと、やはり礼儀正しい。正座してると――なんとなく礼儀正しい。
 お礼――ありがとうございます――がなぜ礼儀正しいって、その「おすそ分け」が、まさに「ありがたい=有り難い」ものだと「彼」が承知していることを示すからだ。「ありがとう」はそういうわけで、非常に謙虚な言葉である。まさに、倫理的であると思う。
 さて、以上のことを考えると、「礼」とは、「彼」に「謙虚な姿勢」があるかどうかに関わってくる気がする。なぜ「謙虚」が「礼」になるのか――それは「初対面」のとき、あるいは相手が「目上の立場」であるときに、「謙虚」であることによって、その「距離」を適切に認識しているということをきちんと示せるからである。つまり「礼」とは――自分たちが置かれた「状況」や「立場」を適切に理解し、そのように振る舞うことに等しい。

 では「失礼」とはその否定――「状況」や「立場」を適切に理解しない振る舞い方を指す――ということになりそうだ。例えば、初対面で、敬語で話さず、近い距離感で接してくる――とか。じゃあ、マスク着用はその振る舞いに当たるのか。どうやら当たるらしい――

 客と店員の間の距離は、はるか遠い場所にある。というか、「お客様は神様である」というから、きっと客は「神」で、店員はその「被造物」――もっと言えば、「物」であるに違いない。
 例えば、店員が、「お客様、そのようなことはちょっと……」と逆らえば、客は途端にキレだすだろう。「うるせえ、客の言うことが聞けないのか! こんな店もう来ねえ!」みたいな。基本的に「客」は、「店員」が「人間味」を出すとキレる。さて――マスクは。

 銅像にマスクをつけてみよう――おもしろい。すごく。だって、「銅像がマスクなんてつけるわけないじゃん!」だから。
 なぜか。銅像は基本的に呼吸をしない。それがたとえ、人間の形をしているからって――銅像は基本的に生きてはいないのだ。だから呼吸はいらない。だから――マスクも付ける必要がない。そういうわけで、銅像がマスクをつけることにはおかしみが生まれる。
 さて、「人間味」を出すことを許されない「店員」が、マスクをつけていたらどうなるか。おかしいに決まっている! だって、人間味のない店員が、生きているはずがないんだから。店員は死んでいる――だから、マスクは必要ない。そういうわけで、必要のないマスクを、お店でつけているなら、「状況」や「立場」を考えれば、不適当ということになる。つまり――「失礼」なのだ。
 「マスク着用」はそういうわけで、「失礼」だと考えられるに至った(に違いない)。

 では、緊急事態宣言下において、「マスク着用」はどうだったか――多分、ほとんどの人が「礼儀正しい」と考えていたことだろう。
 例えば、スーパーなどのお店が、宣伝において、「私たちのお店は、従業員のみんながマスクを着用しています」という文面を、全面的に押し出していたが、あれはまさにその世相の表われである。「マスク着用」がイメージアップのための戦略に使われたわけだ。つまり、「マスク着用」が「礼儀正しさ」を表現していたのだ。この状況において、マスクは、「礼」の記号として機能していたのである。

 この事実は、マスク本来の機能に、まっとうなイメージがようやく追いついたことを示している。つまり、新型コロナウィルス以前は、「マスク着用」=「失礼」と思われていたのが、「マスク着用」=「礼儀正しい」となったというわけである。
 先にも説明したが、マスクは本来衛生管理で大きな役割を担っている。つまり、スクランブルエッグや唾が、相手に降りかかるのを阻止する。だから――マスクは、基本的に「着用すれば効果のあるもの」なのだ! だから、「マスク着用」=「礼儀正しい」という価値観の方が、実感としては正しい。
 そういうわけで、マスクに対する「イメージが追いついた」と言えるのだ。

 さて、この価値観の転換は、現状の既存の価値観をことごとく変化する可能性を持っている。
 例えば、店員が「マスクをする」ということはつまり、店員が本来の「人間味」を取り戻すきっかけになったということである。だから、もし客が「マスク着用は失礼だ!」って騒いでも、「いえ、私たちの鼻や口からスクランブルエッグが飛びますので」と反論することができる。――そして、その反論は明らかに有効である。

 街中の人が、普通にマスクをするようになる。普通にマスクをするということは、つまり、鼻や口が隠れるということだ。以前は――初対面の人がマスクをするのは「失礼」に当たった。しかし、今や、マスクを付けない方が「失礼」なのである。すると、言い方を変えれば、初対面の人に「鼻や口を見せること」の方が「失礼」にあたるというわけである。さて――どうなるか。
 間違いの可能性を恐れずに言わせてもらうと、もしかしたら、「鼻や口を見せること」が、翻って言えば、親しい間柄でしか交わされない意味合いを持つようになるのではなかろうか。つまり――鼻や口が、プライベートな部分へと昇格するというわけである。
 考えてみれば、鼻や口みたいな呼吸器官が、今までなぜ露出を許されていたのか。特に口は――淫靡な器官である。食べるところを人に見られたくない(逆に言えば、親しい人としか食事したくない)という人がいるのは、口がそのように考えられている証拠だろう。
 そういうわけで、マスクは、そのようなプライベートを隠す布として機能し始めるのだ。つまり、マスクが下着となるのである!(実際、マスクを下着の生地で作っているメーカーが存在した)

 実際、これは荒唐無稽な話でもないし、SFチックな話でもない。インターネット上では、既にこのような価値観は蔓延していた。たとえば、ユーチューバーの一部は、マスクを着用して「顔出し」をしていた(実況者や女性ユーチューバーに多い)。そして、チャンネル○○記念で、「マスク取ります」という動画を出している人もいる。マスクを取れば、「御尊厳を拝借できました……!」とコメントがたくさんついていた。
 つまり、インターネット上では、既にマスクが、恥部を隠す布として機能していたのである。マスクは、既に下着だったのだ! その価値観が――新型コロナウィルスの恐怖を通じて、現実に漏れ出してきたのである。だから、マスクが下着になるという話は、決して妄想でもフィクションでもなんでもない。

 新型コロナウィルスの恐怖がおさまれば、価値観は元に戻るだろうか――否、私は戻らないだろうと思う。
 緊急事態宣言が解除された今も――例えば先日東京都で発動された「東京アラート」の公式ページには、「「新しい日常」を徹底して実践してください」ということが書いてある。そう――日常は新しくなったのだ。新しくなったものに、昔はもうやってこない。マスクにも、新しい価値観がやってきたのだ。マスクは下着だ――私たちは、下着を頭にかぶらねばならない。

 そう考えると、「マスクをつけるべきかとるべきか」という問題は、実にシンプルに解決する。
 プライベートなとき、あるいは、親しい人の前でのみ、とれ――ということだ。マスクは新しい下着である。ちなみに私は、ハンドメイドの、花柄のマスクをつけている。これが、オシャレなのだ――

Written by Koyuki
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