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受験生が克服しなければならないふたつの心の震えについて

こんにちは、逢坂千紘(あいさかちひろ)です。今回は「受験」の話をします。

中学受験、高校受験、大学受験、その先にも「受験」というのは姿や形を変えてやってきます(先日は姉がリクルートマネジメントソリューションズのSPIテストを受けていました)。

その「受験」というものに、しっかり準備をして臨んだにもかかわらず、目指していた結果が出せなかった、ということはよくある話です。

もちろん単純に時間や勉強不足だったり、カバーすべき範囲を誤認していたりということもあります。そういった敗因はわかりやすいですが、この記事ではそうじゃないタイプの敗因、もっともっと根本的な敗因に、自身の塾講師の経験を踏まえながらフォーカスしてゆきたいと思います。

心の震えを制するものが、受験を制する

だれかの受験が失敗に向かうとき、そこには必ずといってもいいほど、〈二種類の心の震え〉があります。

その〈二種類の心の震え〉というのは、端的に言えば、「じぶんってやっぱり馬鹿なんだ」という自己憐憫と、「じぶんが頭いいわけない」という自己制御です。多かれ少なかれ、みんなあると思います。私にもあります。

このふたつを自覚できるようになれば、受験はそんなにむずかしいものではなくなります。勉強を楽しむ余裕も出てきます。

これについて詳しく考えてゆきましょう。長いので少しずつ読んでいただければさいわいです。

心が震えない育てかたをされてきた受験生もいた

いきなり回りくどくなりますが、まずは特例の紹介です。

お金の蓄えがしっかりあるお父さん、家事専業のエキスパートなお母さん、という家庭で、至当のごとくサポートされつづけてきた高校生がうちの学習塾にいました。

金銭面は父親のフルサポート、生活面は母親のフルサポート、学習面は学習塾と家庭教師のフルサポートですよね。すべてが完璧にそろっていて、完璧であるがゆえにいやらしさのかけらもなく、上品なお金持ちの感じがしました。

そしてなにより、彼自身は「それがふつうのことである」と認識するように育てられていたんですね。

こういう受験生は、自己憐憫とか自己制御といった「心の震え」がありません。あたりまえのようにトップクラスの成績を出して、あたりまえのように親の期待する志望校(親が指定する高校や大学)に入るんですね。

すごいのは、彼自身が「親のエゴに洗脳されて操作されている」といった感じではまったくなく、わりと、ちゃんと、親の用意したレールにひとつずつ丁寧に合意しながら順当に道を進むという世界観を醸成しているところなんです。親のイニシアチブを愛している、と言ってもいいと思います。

繰り返しますが、そこには「じぶんってやっぱり馬鹿なんだ」もないし、「じぶんが頭いいわけない」もありません。高校生相手にみじめな気持ちになった塾長が「きみはふつうじゃないんだよ、わかってるか」と上から目線で余計な説教をしたところで、彼は震えないんです。動揺しないんです。その必要性がないんですね。

恵まれていたとしても「じぶんはふつうだった」と自覚しているひと

こういった受験生は特例ですが、極めて少ないわけでもありません。だれも強いて取り上げないのであまり目立ちませんが、両親のフルサポート、両祖父母のフルサポート、学校のフルサポート、家庭教師のフルサポートでハイレベルな大学に合格する生徒は珍しくありません。割合は少ないかもしれませんが、数はたくさんいます。

まわりからすれば「恵まれている」のですが、そういう環境や構造のなかにいると、それが「ふつう」だと思うわけです。それはだれのせいでもないんですね。その「私はふつうだった」が大人になっても続くこともあります。ノブレス・オブリージュの概念が薄い日本では、そのフルサポートの恩恵が再配分されることはありません。

一発逆転、とまではいかなくてもいいけれど、どうにか近づくことはできないか、と毎日のように悔しさを感じていました。その日のすべての担当授業が終わって、明日の授業の板書案を出して、親御さん向けのサマリーを書いて、挨拶をして塾を出て、自転車に乗っているときも、お風呂に入っているときも、どうにか「あのあからさまな格差」が縮められないかと燃えていました。

あのときから考察しつづけたことを、この記事に要約しています。なので、かなり偏っていますが、そこはご容赦くださいませ。使えるところだけをお持ち帰りくださればと願います。

受験する理由に対して正直になることができれば、個々の悩みは勝手に晴れていく

よほどフルサポートがあるか、よほど早熟でもないかぎり、ほとんどの生徒というのは、なんとなくの家庭支援、なんとなくのモチベーション、なんとなくの意志、なんとなくの熱意、なんとなくの未来予想図、なんとなくの学力、なんとなくの攻略法、なんとなくのセルフマネジメント、なんとなくの合意、なんとなくの右顧左眄、なんとなくの反故反発、なんとなくの受験という印象です。

もちろん、そこには学校が忙しいとか、思い出づくりが忙しいとか、恋愛が忙しいとか、部活が忙しいとか、趣味が忙しいとか、家の手伝いが忙しいとか、みんなそれぞれに妥当な理由があります。

そして、口々に忙しい忙しいと言い訳しながら、どこかでずっと悩んでいるんですね。C判定しか出ないこと、親が明らかにじぶんの進路や偏差値を心配していること、オープンキャンパスに行く気がまったく起きないこと、学校の宿題ひとつ済ませられないこと、まわりはけっこう勉強している(ように見える)こと、志望校に入ったじぶんが満たされている映像が浮かんでこないこと。悩みはどこまでも多様にスケールします。

でも、その悩みを個々に潰したところで、視界が晴れるわけではありません。潰したと思っても、内容を変えて再現されます。潰すだけムダ、というとひどい言いかたかもしれませんが、悩みに構いすぎないほうがいいです。むしろ、肝心なのは、じぶんが受験をする理由に対して正直な心の土台(マインドセット)を用意することです。

「競争じゃなくてもいいんだよ」と言ってあげる、悩んでいるときはリフレーミングから

そのためには、まず、いま現在、受験というものをどのように認識しているのかを知ることです。そして、それがどうも相応しくない場合には、あらためて見つめ直す作業が必要でしょう。相応しいかどうかは、じぶんの受験理由と、受験への認識が一致しているかどうかという意味ですが、わかりにくいと思うので、先に印象的だった具体例を話しましょう。

夏期講習、授業と授業のあいだの昼休み時間のことでした。

生徒と一緒にカップ焼きそばをたべながら、「ぶっちゃけ、受験どう?」みたいなラフな会話をしていたんですね。ひとりの高校二年生が、これまた気軽そうに「競ってなにがたのしいんだろ」と投げかけてきました。

その質問に、当時の私は模範解答を用意しておらず、最近読んだ本の聞きかじりを引用して、「順位とか偏差値を競ってるっていうより、勉強の自己ベストを出そうとしているんじゃないかな。もうこの先、そんなに必死こいて勉強することなんてないだろうしね」みたいなことを返しました。

すぐに話が切り替わって内心はホッとしたのですが、実はそのことばで受験に対する見方がガラっと変わったそうです。

つまり、「受験 = 競争」ではなくて、「受験 = 十代最後の大規模なファイト」という意味構造に変わったらしく、力を出し切りたいと思うようになり、暫定的な進路を決めて、勉強に励むようになっていました。

その変化を私自身もうれしく感じながら、生徒の気持ちを汲み取らずに指導していたのかと恐ろしくなりました。ひとによっては、合意すらしていない競争にいきなり巻き込まれて、まわりを見渡せばみんな熱心で、遠慮してしまうんですね。

受験というものをどのように認識しているかによって、生徒はじぶんの「とるべき態度」を統一的に決めてしまうんです。競争だと思っていたら、遠慮する子もいる。そんな当たり前のことを、毎秒毎秒見逃していました。

大事なことは、競争という認識が相応しくないなら、競争だと思わなくてよいわけですね。

競争なんてしたくもないのに、先生や親の言うことを聞いて仕方なく競争だから、という態度でやっていると失敗します。相応しくない理由を土台にすると滑落します。なぜならば、違和感を背負いながらやりきれるほど勉強も受験もラクじゃないからです。ちぐはぐ感は、決定的な「飽き」に直結します。

まずは、じぶんが受験する理由にみずから近づくこと、あるいはそれをサポートしてもらうこと。まわりの大人を使ってぜんぜんOKなので、とにかくじぶんだけの理由に少しでも近づけるといいなと思います。

だれもが学術を極めたいから大学に入りたいわけではない

ただ、ここの詰めかたはけっこうむずかしいです。

なぜむずかしいかというと、ここにはいろいろな道があるからです。たとえば、とある大学教授に教わりたいからほげほげ大学のふがふが学部に入りたいとか、この学問分野を研究したいから第一線を走っている研究チームがあるほげほげ大学院の教授がやってるゼミのある学部に行きたい、といったど真ん中の相応しさがだれにでもあるわけではないからです。

まず断っておくべきこととして、大学に入るのに学問的な理由が必要なわけではありません。学問的な理由のほうが「望ましい」のは仕方ないので、どうしても学問的な理由のほうが正しそうで、まっとうそうで、素晴らしそうな感じがしてしまいます。

だけど、親の学閥の付き合いとか、就活のブランディングに利用したいとか、部活が有名とか、推薦入試で成功率が高そうとか、自宅からのアクセスがいいとか、学力レベル的に授業料満額の奨学金がとれそうとか、実家を離れたくてできるだけ遠いところならなんでもいいとか、学生寮が魅力的とか、二年生まで専攻を選ばなくてよいとか、留学必須制度があるとか、著名人のゲスト講義が多いとか、じぶんの進みたい業界のエリートが門下から輩出しているとか、好きなひとが行くらしいからとか、好きだった先輩がいるとか、列挙できないほどたくさんの理由があると思います。

そのどれもすべて正しいんですね。そこは強調したいです。もしじぶんの受験理由がしょぼく感じるなら、それは他人と比較しすぎだと言いたいです。他人と比べてどうであるとか、そんなものは捨て置くとよいです。

どんな理由であれ、その理由をしっかりしっかりしっかり踏まえることが大事です。ややラディカルな捉えかたではありますが、理由に対して誠実であることが、受験に対して真摯であることの第一歩です。むしろ、そうすることによって、受験というものをかぎりなくつかみやすくなります。理由に合わせたかたちで受験の土台を築くことで、受験というものが嚥下しやすくなるということです。

迂闊に受験しないということ

最初の難関は、迂闊に受験しないことです。

受験を終えた人間ならだれでも、「早くから準備をしたほうがいい」という結論を持っていることだと思います。打倒できない正論のように感じます。でも、大人のネタバレが、逆に受験生を焦らせることにもなるんです。「急がなきゃ」と思えば思うほど、心の準備はおろそかになります。

受験をライフイベントとして考えたとき、心の準備が欠かせません。気持ちとか納得感を置き去りにしたままでは、勉強もなにも身につかないんですね。

その準備にはこれという決まりはなく、じぶんなりの覚悟だったり、じぶんなりの価値観だったり、じぶんなりの儀式だったり、じぶんなりのルーティーンだったり、じぶんなりのおまじないだったり、いろいろあるものです。

とにかく、これからの数ヶ月を受験というものにフォーカスして、手持ちのリソースを暗記や理解といった勉強、あるいはテスト最適化(面接最適化)に捧げてもよい、という気持ちをつくらねばなりません。

「受験をするじぶん」の自己像をゆっくりでいいので、しっかりとえがいてあげるんですね。そうすると「受験の相応しさ」が生じます。心の震えも弱くなっていきます。

なぜ「自己像」をえがけないのか、それを阻むものを見直す

とはいえ、すでにお察しのとおり、受験に相応しい自己像というのは、おおむねだれかがつくってくれるわけではありません。いつだって自家製です。

そして、それを邪魔するものがあります。邪魔されているから受験生は自己像をえがけない、といっても過言ではありません。

その代表的なものについて触れていくので、意識するさいの参考にしてみてください。

一般論による妨害

たとえば「MARCH」とか「関関同立」とかよく言いますね。塾講師でも言います。ベテラン予備校講師も言います。なんなら学校の先生も言うし、たぶん親御さんも言っています。

では、「MARCH」とか「関関同立」ってなんですか、と聞かれたとしましょう。ほとんどだれもまともに回答できないと思います。なぜならば、それはそもそもなんでもないからです。笑っちゃうぐらいなんでもないんです。

どれぐらいなんでもないかというと、「MARCH」が「ARCH」に減ったところで、「ACH」に減ったところで、やっぱりなんでもないぐらいなんでもありません。

「MARCHだから明治大学に入りたかったのに、ARCHになるなら行かない!」という受験生もいるかもしれませんが、ブランドにこだわるなら生き残った青山大学(A)や立教大学(R)に入ればいいだけの話ですからね。

(私を含めた)大人はけっこうズルいというか、あんまりリソースがないので、コスパのよいものを最大化しようとします。つまり、「MARCH」って言っておけば事が進むなら、それ以上にコスパのよいものはありません。大人の都合です。

まわりの大人が、ほんとうになんとなく醸し出している「MARCHぐらいは行かなきゃね」という雰囲気を感じとってしまった生徒が何人もいてつらそうにしていましたが、あれは〈あなたにとって最適な大学を一緒に考えてサポートしてあげるだけのリソースが私にはありません〉という、じぶんのことで一杯一杯になっている大人の頼りない意思表示(シグナル)だと思っておいてください。そういう大人に、それ以上のことを頼るのはやめておきましょう。

ほかにも、大人たちがなんかの都合で醸し出している「最低でもこうじゃなきゃね」とか、「ふつうはこうだよね」というものがあります。ぶっちゃけ、ぜんぶ無視していいというか、無視しないことには始まらないんですね。心を鬼にして、知らんぷり〈してあげる〉必要があります。

たとえば、親御さんが「関関同立ぐらいは行ってよ」と言ってきたら、「なんで?」と問い詰めてOKです。親御さんも意味わからず言っているはずです。学校とか塾とかコミュニティで、もうすこし頼れる大人を探したいところです。

また、予備校講師が大したリサーチもせずに「こういうことがしたいならふつうはこの大学だ」と押しつけてきたら、それも問い詰めてみてください。

業務が忙しくて進路相談の結論を焦ってしまったか、じぶんの価値観で物事を決めてしまったか、業界の常識を自動再生しているだけか、断言することでマウントをしようとしたか、あなたの進路にまるで興味がないか、おおむねそれぐらいです。

親や友人の期待による妨害

親の期待というのはあります。親も人間なので、なくせません。エゴが出ます。とはいえ、親の期待どおりに振る舞おうとすればするほど、入りたくもない大学、学びたくもない学問、行きたくもないサークル、やりたくもないバイト、みたいなことになります。

もちろんそこに納得するだけのなにかがあればそれでいいのですが、そうじゃない場合はけっこうシビアな道を歩むことになってしまうでしょう。そこは単純に親離れ子離れが求められます。

親離れ子離れができていないということは、情報の方向が「親→子」になっている傾向にあるので、「子→親」をやってみるとよいです。たとえば、親が「MARCHぐらい入れたらいいね」と言ってきたら、たぶんなんとなくの印象で言っているので、「こういう大学にはこういうのがあるよ、こういう大学ではこういうことが学べるよ」という情報を子どものほうから出し、親はそれを受け入れる、ということです。

受験は育ちで決まってしまうことがある、というのは冒頭で触れたことですが、こういうところにも(親の)育ちが出ます。親の器量が問われます。「子→親」という情報がすべて「歯向かう」に感じてしまう親御さんというのも、まあ、けっこういるんですね。

そういう枠組みが出来上がってしまっている家庭には、それをほぐすためのワークショップとかを開いてあげるといいかもなと思っていましたが、私の勤めていた塾では実現しませんでした。

また、友達の期待というのもあります。学力だけで比べがちなところにいると、「あなたのほうが偏差値が高いのだから、こういうハイクラスな大学に行くべきだ」という率直な競争ベースの価値観をぶつけてくることがよくあります。

そんなの余計なお世話ですが、そういう環境と構造のなかにいるので、仕方ないことでもあるんですよね。競争を煽って生徒管理をするしか効果的な手法がない塾だと、そういう目に遭うこともあります。

学者崩れの予備校講師のプライドによる妨害

これは不幸なパターンです。運です。

前提として、予備校講師になりたくてなるひとは、実はそれほど多くありません。むしろ学者になろうとしたけれど、学者になれるのはほんの一握りなのでやむにやまれず予備校講師をやっている人間が、(生徒・親サイドだと見抜きにくいかもしれませんが)けっこういます。

そういったひと全員が害悪という話ではありません。じぶんのこじれた気持ちにケリをつけようと努力している先生もたくさんいます。むしろ、そういう先生のほうが親身なこともあるのですが、理想と現実のこじれにやられたまま予備校講師を続けてしまっているひとのちょっとした特徴として、生徒をナチュラルに見下しているというのがあります。

そういう講師のことばは呪いに近い性質があって、浴びつづけると萎えます。萎えるだけならまだしも、強烈なステレオタイプを発揮しがちなので、生徒の考える部分を奪ってしまいがちです。白黒思考で、0か100を迫り、「やるのか、やらないのか」という問答を好む印象があります。ここがなによりも不幸な部分だと感じます。

「こんな問題も解けないのか」「おまえは馬鹿だな」「考えればわかるだろ」など、立場の強弱を最大限利用した減点的なことばづかいが出てくる予備校講師がいるとしたら、その先生だけではなく、そういう先生を雇っている予備校から距離をとったほうがいいです。

こういった余計な壁と向き合うのもほどほどにして、じぶんの理由や基準をしっかり提示できるようになれば、実は、受験の半分は済んだようなものです。逆にこういった他人の一般論・期待・プライドに最後まで付き合っていたら、身も心も破滅します。

【前半のまとめ】すでに信じることがむずかしいものとしての相応しさ

駆け足になりましたが、前半のまとめです。

「じぶんってやっぱり馬鹿なんだ」という心の震えを生み出している原因は、そもそも自信がもてるような環境になっていないことです。失敗の結論を先取りしてしまう環境にいるんです。その環境から抜け出すには、そのための土台(理由の自覚)が必要なんですね。私を含めて他人は好き勝手なことを言いますが、じぶんにとっての理由、じぶんにとっての認識、じぶんにとっての受験があれば、自己憐憫することもなくなります。無理をすることもないし、見栄をはることもないし、嘘をつくためにエネルギーを使わなくていいので、自然な力が出せるようになります。

周りの大人に足を引っ張られて、自信がなくなって、最初から「すでに信じることがむずかしい」ものだった相応しさも、手元で感じられるようになります。「じぶんってやっぱり馬鹿なんだ」を取り消して、前を向くことができます。

もうひとつの心の震えの解法について

前半とおなじに聞こえるかもしれませんが、もうひとつの心の震えは「じぶんが頭いいわけない」です。おなじに聞こえるのになぜ前後半で分けたのかと言えば、これは「じぶんってやっぱり馬鹿なんだ」を解消したあとにも残りつづける不安だからです。

先ほど「じぶんってやっぱり馬鹿なんだ」のことを「すでに信じることがむずかしいものとしての相応しさ」と表現しましたが、「じぶんが頭いいわけない」のことは「あらかじめ断られている才能の自覚」と表現しましょう。

つまり、じぶんの才能をじぶんで最初から断っている、ということです。このリミッターを解除することが、ふたつめの解法となります。こちらはそんなにむずかしくないです。

才能の始末に怯えるのはふつうのこと

数多くのひとは、じぶんよりも他人に才能を感じます。なぜならば、できるだけじぶんの才能には気づかないほうが平和だからです。

極端な話ですが、もしあなたに兵器をつくる才能があったとしたら、気づかないほうが(気づかれないほうが)安全だし平和ですよね。それはどんなことにも当てはまります。マラソンの才能があると気づかれたら、あなたは他人から「走りなよ」といちいち言われます。数学の才能があると気づかれたら、他人から「未解決予想を解きなよ」といちいち言われます。料理の才能があると気づかれたら、他人から「飯を作りなよ」といちいち言われます。文章を書く才能があると気づかれたら、他人から「書きなよ」といちいち言われます。

もちろんそれが好きなこと、気持ちいいことならよかったかもしれませんが、逆に好きでもないこと、不快なことだったらどうですか。「才能があるなんて気づかなかったほうがよかった」と思うでしょう。

もちろんそれは結果論ですが、そのときになってからじゃ遅いので、できるだけ才能には気づかないように生きるほうが保守的だと言えます。じぶんはふつうのにんげんだ、じぶんはへいぼんなにんげんだ、才能もなければセンスもない、あのひとのほうが才能がある、彼にはこんなセンスがある、彼女にはこんな天性がある、と言っているほうが根本的にラクなんです。

他人の才能にばかり言及しているひとがいたとして、そのひとは決して〈自己評価が極端に低いひと〉ではないですよね。それはふつうのことなんです。私たち、というと主語を広くしすぎかもしれませんが、私たちは才能の自覚を回避するのがふつうなんです。

勉強の才能は基礎をまんべんなくやったあとにようやく輪郭が立ち現れてくる

それでも、もしあなたがいまよりもちょっとレベルの高い受験をしようとしているなら、このリミッターを意識的に外さなければなりません。他人の高い偏差値を見て「あのひとは才能がある」とか、他人のきらびやかなA判定を見て「あのひとはセンスがある」とか言って、爪を隠している場合ではないということです。

といっても、やっぱり習慣的に「じぶんが頭いいわけない」と考えてしまうはずなので、受験的な勉強の才能について具体的にしましょう。

受験の勉強の才能というのはさまざまあって、単発的な集中力、暗記力、理解力、体系把握力、計算力、解答力(テスト最適化)などが挙がります。

勉強の才能がむずかしいのは、個々の要素が目立つからです。つまり、ひとつでも不足していると感じるだけで、一気に「勉強の才能がない(じぶんは頭がわるい)」になりがちなんですね。

たとえば、集中力も理解力もそこそこあるのに「テスト最適化」をトレーニングしていなかったとしましょう。テストのテクニカルな部分として、「時間内にとれるだけのスコアをとる」「ブラフの選択肢を見抜いて除外する」といったことができず、最初のほうの問題でつまずいて点数が思ったよりのびない(そのくせじぶんよりも遊んでそうなやつのほうが得点が高い!)、ということはよくあります。それだけで勉強の才能がないと思えてしまいます。

また、逆もあります。テストの答えかたがほぼ完璧にわかってて、暗記したところも正確で、すらすら70点くらいまではいくんだけれど、それ以降のちょっと複雑な仕掛けのある問題に回答するトレーニングをしていないばっかりに、残りの20分は寝ちゃう、という生徒ですね。そういう子もじぶんには勉強の才能がない、高得点をとれるような人間ではない、と思い込んでいます。

たったひとつの不足が「じぶんが頭いいわけない」という保守的な気持ちを加速させます。才能から遠ざかろうとしてしまいます。「ふつう」や「へいぼん」を急いで確信しようとします。

この習慣を捨てるには、なによりも基礎を充実させることです。トレーニングを各種ひとまわりすることで、不足が少なくなります。そうすると、あれよあれよでいままで解けなかった問題が解けるようになって、もしかしてじぶんは勉強ができるのでは、という認識が芽生え始めるんですね。

今度は「じぶんはどうやら頭がわるいわけではないらしい」を耐えさせてあげるサポートが不足する

『ビリギャル』で話題になった坪田信貴(つぼたのぶたか)さんは、「地頭の悪い子はいない」という重要な洞察を言い続けています。

これはまさに、ほんとうに、もう絶対にと言い切ってしまいたいぐらい、地頭の悪い子はいません。勉強の才能のキーコンポーネントをひとつずつ(ひとまわり)練習すれば、ちょっと地道かもしれませんが、「じぶんはどうやら頭がわるいわけではないらしい」まではたどり着きます。

そして、問題はそのあとです。「じぶんが頭いいわけない」という心の震えをどうにか止めることができても、「じぶんはどうやら頭がわるいわけではないらしい」というのはやっぱり怖いんですね。

ひとつは「いまさら気づいちゃったら、これまでのあれやこれはどうなるんだ」という漠然とした損失感です。ひとによるかもしれませんが、すげえ損した気分になることがあるんですね。もっと早く気づいていれば、という妄想がふくらんでいって、エベレストみたいに高くなった妄想に登攀したとき、ぜんぶがむなしくなることがあります。

これは勉強じゃなくて、どの才能にも言えることです。取り返しのつかない才能の自覚、というのは事実としてあるものです。才能の自覚は怖いんです。才能を自覚してしまったら、才能に対する責任を感じてしまうし、最後にはじぶんで始末しなければならないんですね。繰り返しになりますが、もう「ふつう」でも「へいぼん」でもいられなくなるんです。その習慣を捨てるのは、とても勇気のいることなんですね。

『ビリギャル』がそこをクリアできたのは、書籍を読んでもらえればわかるとおり、お母さんや坪田さんのクリティカルなサポートがあったからです。坪田さんの実直な教育もさることながら、お母さんの器量がすさまじいんですよ。才能の自覚におけるネガティブな面を、あのお母さんはすべて肩代わりできるひとで、そういう二人三脚のかたちも現実にあるんだな、と(ビリギャルはレアケースかもしれませんが)非常に勉強になりました。

【後半まとめ】「やればできる」ではなく、「ひとまわりトレーニングして、じぶんで思っていた以上にじぶんができちゃうことを受け入れて、それに耐えられたらできる」である

前半では、大人に足を引っ張られるな、というメッセージを伝えました。たぶんわかっちゃえばそんなにむずかしいことではないです。

後半では、それを踏まえた上で、じぶんの才能と向き合わねばならない、という話をしました。じぶんに才能があるというのは考えただけでも怖いですが、じぶんにとっての受験理由という立脚点が確かならば、その恐怖心さえも飼いならしてしまえるぐらい強くなることもできます。

ただ、「ぜんぶひとりでやろうとしない」もアドバイスのひとつです。受験街道を一緒に走ってくれるまわりのひと、重たい荷物を持ってくれるシェルパ、そういうひとたちの存在があれば、あんまり怖がらずに勉強を楽しむことができると思います。

さいごに

私は「本番に弱い」受験生でした。

すげえ詰め詰めで勉強したのに、いざ本番になると受験用紙が踊りだして、文字が滑りだして、時計が狂っていくんですね。

でも、ここまで読んでくださったかたは「本番に弱い」なんてないことがすこしわかってもらえたかもしれません。きっと、過去の私に向かって、「あなたは心が震えてたんだね」と言ってくださるかもしれません。

学力自体は足し算かもしれませんが、心の準備は引き算かもしれないな、というのが私のこれまでの知見のサマリーです。

逆に、親とか先生というサポートサイドにとって、どんな子のどんなことをどんなタイミングでどんなふうにサポートすればいいのかを考えるときの参考になればさいわいです。

すでに信じることがむずかしくなってしまっている相応しさとか、そのまわりにある遠慮とか、裁量不足とか、あるいはあらかじめ断ってしまっている才能をどうやって取り戻すかとか、才能の自覚に耐えられる環境づくりとか、細かく見ていけば重大な要素というのはいろいろあります。

それを受験生・指導者の両方から構築していける考えかた、ノウハウ、ナレッジというものを確立していきたいなあと思います。これが次の10年の目標です。

もちろん、それぞれの生徒の事情に合わせて個別に考えてゆくと、サポートする側のリソースが枯渇することもあります。そのときどうするのか含めてですね。ビリギャルの坪田さん的に言えば「子別指導」ですが、子別指導を走り切るための指導者サイドの馬力というのもタダではありません。不可欠な話です。

というところで今日の話は切り上げようかと思います。最後まで読んでくださってありがとうございました。

今回の話でわからないところなどがあったら、ぜひご連絡いただければと思います。それでは、よい受験ライフを(私も翻訳のトライアル受けなきゃだ)。

Written by Aisaka, Chihiro
Copyright LagonGlaner and Author

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