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受験現代文の現場を紹介する

国語と生活を結び付ける教育とは

国語――とは、難解な教科だと常々思う。塾講師で、主要五科目全て教えたことがあるけど、とりわけ国語は難しい。何が難しいって、それは、教科書の目次を開くだけで分かる。

英語や数学の教科書を開くと、各単元がきれいに体系化されているのが分かる。例えば、現在進行形を習ったら現在分詞へ。因数分解を習ったら、それを応用して二次関数の学習へと繋がっていく。体系化されていると、習う方は自分がどの位置にいるか分かりやすいから、学習において成長の実感が湧いて楽しくなるし、教える方も、「前に習った範囲を思い出して!」が言いやすいから楽だ。
 でも国語は――そうなっていない。ためしに、高校受験の国語の教科書を開いてみると、目次の項目は「説明的文章の読解」「文学的文章の読解」「古文の読解」のみ……。名前はここの教科書で違うかもしれないが、大体この三つ。各単元の中身も、「読解①」「読解②」……と数字が並ぶだけ。これでは、生徒は文章を読んで解くという単調な作業を続けさせられる羽目になるし、先生は本当にこれでいいのかと自問自答をし始めるようになる。
 国語はどうやって勉強したらいいんだ、どうやって教えたらいいんだ。というのが、おおよその現場の声である。参考書を開けば、怪しげな「解き方」が蔓延しているのも、ここに端を発している気がする。とにかく、国語は良く分からない――

しかし一方で、この特殊性があるからこそ、私は国語を教えるのが一番好きだ。体系化されていないということは、逆に言えば、体系に縛られないことでもある。
 基本的に、人間は体系性を意識して生活してはいない。とりあえずポテチ食べるし、気晴らしに散歩に行く。職場に行けば、確かに「役職」によって振る舞いは体系化されがちだけど、だからこそ職場は生活の領域において特殊なものと見なされる傾向がある。

そういうわけで、国語は、五教科の中でも一番生活に密接に結びついているんじゃないかというのが私の意見である。

今回は、この意見にもっと説得力を持たせるために、生徒との実際の授業の様子を書いてみようと思う。守秘義務があるので、ちょっと小説チックになることをお許し願いたい。
 まずは、個別指導で、文系学部志望の高校三年生の女の子教えたときのこと。この生徒は最初、「国語ってどうやったら勉強したらいいんですか!」と言いながら、塾にやってきた。

「どういうこと?」と、授業ブースに誘導しながら私は聞いた。「どの程度分からない感じ?」
「いやもう、全然わからないです」
 その子は、成績は基本的に優秀で、英語や社会は特によくできていたが、国語はだいたい平均点のあいだを行ったり来たりしていた。各試験によってバラつきもあり、まさに国語を運ゲーで解いているんだなって感じ。典型的な「国語の勉強の仕方が分からない」系の生徒だ。
「で、解き方を教えてくれるんですか」と、彼女は教科書を取り出しながら聞いてきた。
「大雑把に言えば、文章を読んで、問いに答える以外ないよ」
「大雑把に言わなければ、なんなんですか」
「今は、大雑把にしか言えないので、これを解いてみよう」
 といって、私は、大学受験の過去問を取り出した。国語は、多少の難易度の差は考慮に入れなければならないが、初めての受講生にいきなり過去問を解かせることのできる唯一の教科である。
「ええ……多分あんまり解けないですよ……」
 と、生徒はぶつぶつ言いながらも問題に着手し始める。実は、「国語の勉強の仕方が分からない」となってしまう人は、点数を挙げたいという気持ちだけは十分にある傾向にあるので、いきなり過去問を持ってきてもちゃんと取り組んでくれる。
 あんまりジロジロと見るのもかわいそうなので、私は、問題文を読み込むふりをしながら、横目で生徒を観察する。
 基本的に、問題を解くスタイルは二つに大別できる。一つは、一回全て課題文に目を通してから、問題を解くスタイル。もう一つは、問いに関係のありそうな部分までその都度読んで問題を解いていくスタイル。国語は、基本どのように解いても問題はないけど、とりうる教え方はだいぶ変わる。この生徒は、後者だった。
 このタイプは、かなり要領よく問題を解く傾向にある。恐らく、問題を解き慣れている。多分、自分でもかなり演習などして努力しているんだろう――接続詞などに丸を付けたり、強調を意味する助詞や助動詞のある文章に線を引いていっている。
「できました」生徒は顔を上げた。選択肢には、×や△が、〇の他に並んでいた。多分、消去法を使ったんだろう。「答えもらえますか?」
「いや、待った。答えはまだ」
「え?」彼女は目を丸くして言った。
「だいたい分かったんで、ここらへんで点数の上げ方を教えようと思う」
「え、まだ、丸つけしてませんよ?」
 ここからだ――と私は思った。小説チックな文章なので、この時点で私は余裕そうに見えるかもしれないけど、実際は全然違う。生徒と話すとき――私はいつも緊張する。心臓はバクバク。手には汗。ここで言葉を一つでも間違えたら、信用を得られるチャンスがなくなる。
 一呼吸を置いて、私は言った。
「とりあえず、すぐに丸つけをしない――これが、点数をすぐに上げる方法かな」
「どういうことですか?」
「いや、別に深い考えはないんだけど、結構、国語よく解けてるから。これで点数上がらないんじゃ、変えられるとこ変えないといけないと思って。で、まずは、すぐに丸つけするのをやめるっていうのを試してみようかなって――」私は、穏当な意見を言った。
「じゃあ、丸つけ以外になにをすればいいんですか」
「質問」私は言った。「わかんなかったところを質問してみよう!」
「わかんないところ……」生徒は、ちらりと問題を見直す。「今のところはないですね」
「マジか、ないのか……じゃあ、俺質問していい?」
「へ?」
「実は――ここの部分、何度読んでも分かんないんだよね……」実際、私は本気で、その文章に分からない箇所があった。自分で出題しておいて分からないことがあるのか! と怒られそうだが、分からないものは分からない。国語の先生は、文章の形式については専門的にはなれても、文章内容においては素人同然なのだ。
「な、なんで先生に分からないことがあるんですか……」生徒は、失望の目を向ける。
「なんでって、考えてもみてよ。人間には分かんないことって必ずあるわけじゃん。まあ、確かに、先生ってのは、生徒に全部わかってるフリをするってのも、一つの仕事だったりするわけだけど、限界はあるよ。試しに、英語の先生に『どうして、三単現にSをつけなきゃいけないんですか?』って聞いてみてよ。多分、答えらんないから」
 私はオタク特有の早口を駆使して、言い訳する。実際、言い訳なのだ! ……しかし、この身振りは実際大切だった。「質問」が、国語では重要なのだ。まずは、率先して私が質問しなければならない。
「――で、ここは分かった?」
「わかんないです……でも、ここが分からなくても、問題は解けるんじゃないですか?」
「今回は、解ける。――と思う。断定はできないけど」
「断定してくださいよ! 先生でしょ」意見はもっともだ。だけど、
「だって、俺、さっきも言ったけど、マジでここの部分の文章分かんないんだもん。もちろん、結構調べたんだけどね――分かんないんだから、設問に関係あるかどうかもわかんない」
「やばいなこの先生――」彼女は小声でつぶやいた。
「でも、ちょっともう一回設問をよく見直してみてよ!」私は指さして、問一の文章を黙読させた。
「傍線部は、どういうことが言われているのか――」
「その次は?」
「最も適切なものを――」
「それ!」
 私は、“最も適切なもの”の部分に丸を付けさせた。国語はここが大事なのだ。特にこの“最も”の部分が――
「これがなんなんですか」彼女は言った。
「最もってことはね――」私は、一呼吸を置いて、喋り始める。「つまり、「適当なもの」への、すり寄せが必要だってことなんじゃないかなって思うんだよね」
「すり寄せ?」
「例えば、英語とか数学って、比較的ちゃんと答えが設定されて、問題が設計されているから、俺たちがわざわざ話し合わなくても手順を踏めばしっかり答えが出てくる。でも、国語は、「最も適当」なレベルでしか答えが出ない……」
「え、じゃあ、答えはないってことですか?」
「なくはない。けど、ある――とも言えない。設問の制作者だって、きっとビクビクしながら問題を作ってんじゃないかな。ちなみに、赤本の答えは――ときどきアテにならない」
「え……」
 生徒は、固まってしまう。
「でも、逆に言えば、言葉を学ぶってこと自体がもう――曖昧な答えを出し続けるって営みになるんじゃないかな」心の中で、良いこと言ったぜって叫ぶ私。「だから、議論の余地が生まれる。俺も出題者もみんな、真の答えみたいなのが分かんないわけだから、とりあえず考えなきゃいけないんだよね――国語は、その「議論」する力、みたいなのを鍛える側面が強いんだと俺は思ってる――」
「はあ」生徒は口をぽかんと開けていた。
 基本的に、先生の言葉は、生徒には届かない。初対面ではやっぱり、教えることがたくさんあるので、少し説教臭くなってしまうけれど、実際に点数を伸ばす要因になるのは、本人がいかに考えたかというところによる。
 結局、この一連の言葉は、すぐに理解してもらえなかった。しかし、とりあえずは「議論」が大事ってところは分かってもらえたので、このあと一年間、色んなテクストを読み込み、お互いに質問をし合った。
 この生徒は、かなり観点が鋭く、ときには――というか半分くらいは――答えられない質問が飛んできた。私自身もいろいろ教えられながらも、その都度根気よく議論をしまくる。そのおかげか、この生徒は第一志望――どころか、見事、記念受験のつもりで受けた難関大学にも合格することができた。
「議論、大変でしたけど、主観的な意見をすり寄せていくって本当に重要なんですね……」後日、合格の報告にきたとき、女の子は何度も言っていた。

今度は別の子の例である。
「先生、今日はこんなのみつけたんだけどぉー」
 その子はいつも、だるそうな顔で塾に通っていた。高校二年生の男の子。そのときこそ、こうやって話しかけてくれるようになったが、初めは大変だった。先で紹介した子と違って、意欲がまるでないのだ。
「え? どれ、見せてよ」
「ん、この記事」彼はスマートフォンを取り出し、画面を見せてくれた。
「あ、俺まだそれ関連の記事読んでないから、ちょっと待ってて、今から読むわ」
 私もスマートフォンを取り出して、調べ始める。実は、このとき通っていた塾は、授業へのスマートフォンの持ち込みが禁止になっていたが、私はいろいろ理由を話して、特別に許可してもらったのだった。その理由を話すには、まず、この子との初授業を思い起こす必要がある。

「――じゃあ、とりあえずこれ読んでみてよ」
 私は、初授業のセオリー通り、大学の過去問を持ってきて解かせようとした。まだその時は高校一年生だったので、難易度のそこまで高くない問題だ。しかし、
「え……興味ない」彼は、それを拒否した。
 塾に来る子は、大きく分けて二パターンある。一つは、先ほど紹介した子みたいに、本人が焦りを感じて塾に来るタイプ。正直、この手の子は、すごく授業しやすい。というか、この時点で塾の仕事の6割は終わっている。
 問題はもう一つのパターンである。親に言われて仕方なく来た、という子だ。大体、高校一年生から通う子に多い。受験なんてまだまだ先だし。三年になってからが本番だし……ちなみ、私も現役のときは、こうだった――
 そういう子に、問題を“ちゃんと”解かせるのは、難儀する。特に、国語はやばい。国語は、生徒に、心の奥底で「日本語なんだから、いざとなったらできないわけないでしょ」という気持ちを抱かせる。本当、問題に着手させるだけでも一苦労だ。
「――いや、解いてもらわないと困るんだけど」私は、半ば呆れたポージングをして、答えた。「これから授業の方針たてなきゃなんねーんだし」
「でも、興味ない文章は読めないっすよ」
「じゃあ、何なら興味あんの?」
「いや……特に、なんも興味湧かない……」
 彼は、私の質問にだるそうに答えた。塾に通っていて気が付いたのだが、十何年間生きていて、本当に何にも興味がない人間って結構いるらしい。驚いたことに、ゲームやYouTubeも飽きてしまうんだとか! 逆に結構凄い。貫いてほしいとさえ思う。……ここが塾じゃなければ。
 しかし、本当のところ、興味の一切湧かない人間はいない……ということを精神分析家が良く言っている。人を動かす原動力は「欲望」である。きっと「興味が湧かない」ことへの「欲望」が働いているとも言える。この「欲望」の正体は何か。私は、精神分析なんかよく知らないので、とりあえず素朴に質問を重ねてみる。
「スマートフォン」私は、彼が今も大事そうに持っているデバイスを指さして言った。「スマートフォンでは、いつもなにみてんの」
「んん……いろいろ」彼は口を濁す。
「たとえば」
「なんで先生に教えなきゃなんないんですか」
「たしかに――」
 その生徒の言うことは、理に適っていたので、私は黙った。確かに、そんなことを聞いてどうなるんだ。しかも、スマートフォンは、プライバシーの塊である。エロサイト見てる可能性だってある。――面倒くさいので、しばらく放置することにした。私は、次に来る子の授業準備を始めた。
「……なんでなんも言わないんすか」しばらく経って、彼は言った。多分、二十分は黙っていただろう。私は、一年分の過去問をまるまる予習できた。
「え? なんで俺に何か言う必要があんの」
「え……だって、先生じゃん……」
「はぁ、俺の目線に立って考えてみろよ。国語の授業にやってきた生徒がよ、問題解けって言っても『興味ない文章は読めない』とかいって読みもしねえし、じゃあ興味あるもんは何かって聞いたら、なんもないっていうし。スマートフォンで何見てんのかすら教えてくんないわけじゃん。お手上げだよ。無理。あり得なくない? もう言うことないわ」
「……まとめサイト見てる」彼は言った。少しわかってくれたに違いない。「これ見て、色々考えんのが好き」
「へえ、なにみてんの?」私はやっと、コミュニケーションの端緒が見つかって、心の中がウッキウキになるも、平静を繕いながら聞いた。
「この思考実験なんか好きで……」
「ああ、それ? その哲学者ならよく知ってるよ? あれだろ?」私は、自分の知っている知識を披露する。哲学は数少ない得意分野だ。生徒は目を丸くした。
「え、なんで知ってんの?」
「なんでって、俺、普段、哲学勉強してるからさあ」
「ええ? 国語の先生って、国語の勉強してるんじゃないの?」生徒は、少し興味がわいたような顔で、こちらを向いた。
「少し考えてみると分かるけど、「国語」ってよく分からなくない? 何、国語って。歴史学とか、心理学とかなら、まだちょっとわかるけどさ……国語って。ちょっと大雑把すぎるよね。そんなのに興味持てるわけないじゃん。だから、大半の人は、「国語」そのものを勉強するより、例えば国文学とか、哲学とか、一般言語学とか勉強するわけ」
「え、なにそれ、一般言語学……?」
 と、私は、色んな学問があることを様々に説明した。国語は、そういう専門的な勉強するための基本的なことを、大雑把にまとめた教科に過ぎない――と言ったことも。
 すると、ようやく心を許してくれたみたいで、まとめサイトの色々なページを見せてくれた。中には下世話なものもあったが――それは仕方がない。全部見た。

この子が通い始めてから少し経ったある日――
「この人の書いてる意見、分かんないんすよね」生徒が、難しい単語が並んだレスを見て呻っていた。
「ああ、それはさ、こう書いてるんだよ。つってもなあ……こことここの論理が繋がってないから、背景知識がないと読めねえなこれは」俺は、ホワイトボードにそれを写し、論理の繋がっていない部分を指摘する。生徒は、口を開けたまま、頷いた。
「え、そういうのも、哲学学ぶと分かるようになるんすか?」
「いや、そういうわけでもないな。俺は、それ関連の本を読んでたから、たまたまわかっただけだわ。――あでも、その本も、哲学の文脈で発見したから、やっぱ分かるようになるかも」
「へええ……」生徒は、感心しながらスマートフォンを再び見た。何か思うようなことがあったみたいだ。

半年後、
「んん、わかんねえなこれ……」今度は私が、生徒の前で呻っていた。
 実は、まとめサイトやSNSのような、本当に好き放題書かれているテクストを理解するのはかなり過酷である。私もやり始めて、初めて知った。情報収集にかかる知識量が余りにも多すぎる。ポスト・トゥルース時代とは良く言ったものだ。分かった気にでもならないと、まともに読むことすらできない。
 しかし、
「あ、先生、それは多分こういう意味っすよ」生徒が、ホワイトボードを指さす。
「え?」
「ほら、ちょっと待ってね……」と言って、生徒はスマートフォンを細やかに操作する。「これ。ちょうどブックマークしてた」
「おお? そんなのも読んでるのか!」私は感心した。まとめサイトよりも、はるかに信頼できる情報サイトだった。
「このサイト、参考文献がしっかりしてて、いいんすよね~」
「参考文献……」
 私は、すこし涙腺を刺激されてしまった。何にも興味のなかった子が、半年経って、ここまで変わるとは……。高校生の成長は、本当に目覚ましい。そしてこのときはもう、私の出す問題を、ようやくきちんと興味を持って、解いてくれるようになっていた。

しかも、そのサイトは、そこの文章を読むのに必要な知識がしっかり書き込まれていた。
「すげえな、よくこの記事で解決できるって思ったな」
「わかるっすよ、そのくらい! 余裕だね」
「なるほどね……」私は、ホワイトボードに書いた文章をもう一回見た。また、生徒に教えられてしまった……。

授業は、一年間、そんな感じでスマートフォンを扱いつつ、読解の練習を続けていった。結局その子は、途中で「俺、行きたい学部が見つかったから、集団授業行くっす!」といって、この塾を辞めてしまったので、今はどうなっているかは分からない。
 しかし、私としては本望である。生徒に、学問に興味を持ってもらえることほど、嬉しいことはない……。

最後は、私である。私の通っていた塾は、非常にユニークな授業を展開していた。私自身の教育観に、かなり影響している気がするので、紙面を割いてでも紹介したい。
 私の通っていた塾は、集団授業である。が、国語のクラスは、非常に少人数で、確か生徒が8人くらいしかいなかった気がする。
 その先生は、非常に怖かった。
 私は当時、かなりズボラで、本当に不真面目な人間だった。次の場面は、二日目に宿題を忘れてきたときのことである。

「ねえ、君。立ちなさい」先生は鋭い目で私を睨む。私は縮み上がってゆっくり立ち上がった。
「は、はい」
「君の志望している大学と学部は?」淡々と、先生は言う。
「え? ええと、し、志望大学は――」と、私はどもりながらも、当時志望していた学部をみんなの前で言わされた。かなり恥ずかしかったことを覚えている。
「……いいでしょう。次は、もっと堂々と、その大学を目指しなさい」
 私は静かに座った。恥ずかしい――それは、自分が宿題を忘れたからだと思った。宿題を忘れることは、こんなにも恥ずかしいことなのか。私は、強く反省した。
 そういうわけで、私はしばらくの間、この講義をビクビクしながら通うことになる。というか、やめてやろうとさえ思っていた。でも、ここでやめたら、私は「宿題を忘れて恥ずかしくなってやめた人間」となってしまうのではないかという思いもあった。そして、堂々と大学を目指したいとも考えていた――
「こんばんは」先生は、教卓に立って礼をする。教室中が緊張に包まれた。
「よろしくお願いします」八人の生徒は、丁寧にあいさつした。

と、この授業の緊張感を伝えるために、少しだけ修辞学的誇張を含めて雰囲気を書いたが、いちいち書いていると長くなってしまうので、エッセンスを取り出して説明したい。
 この授業はまず、予習主体で行われる。事前に指定されていた問題を、時間無制限で解いてきて、記述も含めて「満点答案」を作ってくる。何度も読み直して、考えられる限り考えて、正答を自分で探すのだ。
 それで、授業開始直後に、先生の前で、作ってきた答案を言わされる。選択肢の問題なら、順番にみんなで言っていって。記述なら、答案を黒板に書いて。
 生徒が書いた記述答案は、先生がみんなの前で丸つけする。だいたい、×と△で埋め尽くされる。〇がついたら、生徒から「おお~」と歓声が上がる。それくらい採点基準は厳しかった……そして、ユニークなのはここから先である。
「何か質問はありますか?」
 この授業では、先生が自ら、一切解説をしない。生徒に聞かれなければ、何もしゃべらない。一回、三回目くらいの授業で、しばらく誰も質問が思いつかなかったことがあった。そのとき、先生はただじっと突っ立っているだけだった。なぜ×なのか、なぜ△なのか、一切分からないまま、授業が終わったこともあった。
 でも、それが段々効いてきたのか、私たちは、次第に、質問をバンバン浴びせるようになった。最初はそれでも、拙い質問ばかりだった。しかし、質問を繰り返すうちに、だんだんと「質問の仕方」そのものが分かってきたのである。例えば、
「なんで×何ですか?」と言う質問は、×を貰った人間ならだれでもできる。こういう質問には、
「間違ってるからです」という答えしか与えられなかった。だから、もっと突っ込んで質問をする必要があった。私はもう少し頭を使って、
「僕は、ここの行のこの部分を読んで、こう書いたんですけど、周りの人の書き方を見ていると間違っているということですよね。この行は一体どういう意味なんですか?」と質問すると、
「じゃあ、その部分を三回音読してみて」と先生は言う。言われた通りに音読すると、助詞や「ない」を間違えて読む。間違えて読むたびに「もう一回」と先生は圧力をかけてくる。それで、ようやくわかってくる。
「間違って読んでました……」
「そうですね。じゃあ、それを踏まえて答案を直してみてください」
 先生が言うと、私は黒板に近づき、自分の答案を直した。それが当たっていると(その確率もそこまで高くはないが)、先生が大きな〇をくれた。そのとき、「よくできました」と先生は言ってくれた。嬉しすぎる。
 おもしろいのは、〇のついた私の答案を見て、他の生徒も自分の答案を直し始めることである。そうやって、私たちはお互いの答案を手本にし合っていた。
 この体験は私の、一般的な先生に対する既存の印象――先生は教えるべき役職である――を一新した。教えるばかりが、教師の役目ではない。特に、「国語」という教科では、そうなのかもしれない。

私はまだ、こういう授業を実行し、成功したことはない(というのも、問題は山積みである。この授業も、生徒のモチベーションにある程度依存している。モチベーションがなければ、生徒は塾に来なくなる)。しかし、自分で考えさせる――すなわち、生徒に主体性を保たせることを主眼に置いた「教育」を考えるやり方が重要であることは十分に理解し、実践しているつもりだ。
 そして「国語」は、その、自由な性質からそれがやりやすい――そういうわけで、生徒と議論したり、スマートフォンを使ってみたり、色々やってみているというわけである。最終的には、生徒が(そして私が)よりよく生活できるような態度を身につけられるようにすることが目標となるだろう。どう生きるか――ということを考える癖をつける。

以上が、大まかな、私の「国語」に対する期待のあらましである。

Written by Koyuki
Copyright LagonGlaner and Author

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Liana Mikah
ブログ 思いつづるひとつひとつの日々。
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