///

わたしの中の犬は、よく見るととても可愛かった

これまでたくさんの失敗をしてきた。わたしは失敗することがとても嫌いだ。というよりも、失敗の結果として嫌な気持ちになることそのものが嫌いだ。

失敗をしてしまう瞬間、つまり、自分が今まさに失敗というものに差し掛かろうとしている瞬間、なんとなくそのことが自分でわかってしまうときがある。もうぶつかる、このままいったら大変なことになる、このまま自然に任せて言葉を発したら誰かを傷つけてしまうとわかる、なのにどうやっても身体がそれを避けられない。飛び出した子どもが見えているのにブレーキが間に合わなくて事故を起こしちゃう運転手の感覚と似ているのかも、そちら側になったことがないから正確なことはいえないけれど。

わかっているのに失敗してしまうのは本当にしんどいことだ、失敗したことに加えて、わかっていたくせに回避できなかったこともまた、自分を責める理由になる。こういうとき、わたしという人間は心と身体の二つに分裂する。回避してくれなかった身体のせいで、心としての自分が失敗という結果の責任を負わされている気持ちになってしまうのだった。

一方、本当に失敗してしまうまで失敗の存在に気づけないときもある。こっちは交通事故の被害者の感覚と確実に近い、ぶつかられた側にはなったことがあるからその感じはわかるんだ。車にぶつかられるときっていうのは、自分が何かとぶつかることなんか予想していないし、ぶつかられた瞬間はまだ何が起こったかわかっていないし、地面に転がってもまだ、自分の置かれた状況について何一つわかることはない。何があったのかが本当にわかったのは、自分の自転車のフレームが異様な角度で曲がっているのを見た瞬間だった、私の場合は。

とにかくここで言いたいのは、わたしは予期せずに失敗するときもある、ということ。そして、そういうときにもやはり自分が分裂して、自分が起こした失敗の被害に自分が遭っている感じがする。なぜこれを予期して回避してくれなかったのか、という怒りを、もう一人の自分に対して抱いている自分がいる。

結局、どんな失敗をしてもわたしは分裂し、もう一人の(加害者としての)自分に対して意味のわからない被害感を抱き、激しく責めることに変わりはない。だから失敗というのは嫌なのだ。

それで、犬。

失敗するのが嫌なわたしは、失敗するのが嫌だという気持ちとはまた別のところで、犬と暮らせたらいいなあという気持ちを抱き続けてきた。むかし実家に住んでいた頃に犬がいてくれたことがあって、それはわたしの人生の中でも飛び抜けて幸福な経験だった。けれど、完全に自分の選択として犬と暮らしたことはない。というか実家を出てからは犬と住める場所に住んでこなかったし、犬との暮らしはわたしの中で長い間、ただひたすら幸せな夢のままであり続けた。

しかしその夢がここ一年くらいで突然、実体を持った目標になってきた。戸建てを注文することになったからだ。本当に犬と暮らす予定があるならそれが難しくないように間取りを配慮しなければいけないのかもしれなかった。こうして、自分の責任で犬と暮らすことをかなり現実的なこととして検討し始めたとき、失敗するのが嫌だという気持ちと犬と暮らしたいという気持ちが突如として自分の中で混ざりはじめた。わたしは犬のことでも失敗したくなかった、それは言葉を変えれば、犬に失敗してほしくないということだったのだと思う。まだ、いつどんな子犬を迎えるかを決めてすらいないのに、わたしはアマゾンで『ドッグトレーニングバイブル』を買った。

そこには確かに犬の失敗をさせない方法が書いてあった、でもそれより先に書いてあったのは、犬の失敗とは何なのかということだった。まず、人間にとっての犬の失敗は、犬にとっては当然の行為だと書いてあったし、よく考えると確かにそれはそうなのだ。吠えることも好き勝手に走ることも飛びつくことも知らない相手に攻撃することも穴を掘ることも全部、犬が生きていく上で必要なことだ、ただ人間と一緒に住む上で、人間からみたら不都合なだけだ。それらの行為を「犬の失敗」と名付けるのであれば、全ての犬の失敗は飼い主のせいで起こっている。本を読み進めるうちにわかってきたのは、犬が失敗しているのではなくて飼い主が失敗しているのだということだった。

いわゆる犬の失敗は、犬から見るととても合理的だ――たとえばこう。仔犬のときは全力で走っても膝に飛び乗っても遊びで噛みついても可愛がってくれた飼い主が、大きくなったら急にそれらをよろこばなくなったし、それどころか叱りつけるようになった、犬はただ成長しただけなのに――それからこれも――「おいで」と言われて嬉しくて飼い主のもとに行ったら首輪にリードをつけられたり狭いところに閉じ込められたりしたので、もう「おいで」と言われても飼い主のもとには行かないと決めた。

なるほど、犬のほうにも言い分があるのだな、そう思わされたそのときわたしは気づいた、自分の中から犬の声が聞こえるのだ。

わたしの内部にいる犬、それは感情と言われることもあるかもしれないし、あるいはインナーチャイルドと呼ばれるものと同じかもしれないが、とにかくその犬はよく失敗しているし、その犬のせいでわたしはいろんな人に迷惑をかけてしまうと思っていた、自分が自分としてちゃんと生きていくには自分の中の犬を地下室に閉じ込めなければいけないと思っていた、犬が憎かった、つまり失敗したときわたしは人間と犬とに分裂していたのだ。そもそも犬なんかがいるのが悪いと思ったこともある、感情があるから人間の生は苦しいと思ったことがあるのはわたしだけではないだろう。でも犬から見れば全ての失敗はまったくもって失敗ではなく、犬は当然のことをやっているだけである。

本を読んでいくうちにわたしの中の犬が癒されていくのがわかった。わたしの中の犬は、突然自分の理解者が現れたことがあまりに嬉しく、ぼろぼろ涙をこぼし、嗚咽した。わたしの中の犬は、よく見るととても可愛かった。

犬が失敗したとき、多くの飼い主は心のどこかで「自分のしつけがなっていない」ことを意識しているはずだし、その認識は間違っていない。わたしもそこまでは認識できている。しかしその次に、「しつけがなっていないのはしつけが足りないからだ」と思うのが多分よくないのだろう。そうではなく、「犬の言い分や犬の論理を理解できていない」可能性、そしてそのために、自分の愛しい犬にきわめて頓珍漢な要求をしている可能性を考える必要がある。

この本を読み終えてもまだわたしは、わたしの中の犬(つまりそれはわたしとも言える)がどうして失敗してしまうのか、その論理を完全には理解できていない。でもこの先なんらかの失敗をしてしまったとき、犬を加害者に仕立て上げて被害者の立場に甘んじる必要はないのだということ、これからは犬を自分と対等な存在として認め、その論理を尊重した上で、いつも互いに話し合い、協力しあって外界と関わってゆけばよいことは理解した。

「そうなるべくしてなったのだ」という言葉の静けさ。もつれた糸のほどき方は、どうしてもつれたのかを理解できたときにわかる。そういうことを忘れずにわたしは心の中の犬と向き合いたい。そしてこの子とうまく暮らせるようになったら、本当の犬を我が家に迎えたいと思う。

Written by Sera, Mayo
Copyright LagonGlaner and Author

「ラゴン・レキシク Lagon Lexique」は、ことばとの出会いを大切にするランダム語釈表示サービスです。ふだんの生活では出会えないことばが収録。どなたでも無料なのであそんでみてください!

運営や著者に声を送る かしこまらず、あなたの温度感で。 フォームへ飛ぶ
Liana Mikah
ブログ 思いつづるひとつひとつの日々。
Agathe Marty
エッセー それぞれが一回に懸けるもの。
daniel petreikis

『ラゴン・ジュルナル』に来てくださってありがとうございます!

「JavascriptをOn」にしていない端末やブラウザで閲覧しているかたに、このアラートが表示されるようになっております。Javascriptを許可してからおたのしみくださいませ。

Chrome「設定」→「詳細設定」→「プライバシーとセキュリティー」→「サイトの設定」→「Javascript」を許可 iPhone「設定」→「Safari」→「セキュリティ」→「Javascript」をオン iPad「設定」→「Safari」→「詳細」→「Javascript」をオン Android「メニュー」→「設定」→「高度な設定」→「Javascriptを有効」など