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飲んで、書く - Physicality. Neutral. Hang out

得た知識だったり、見聞きした知識を自分の中で振りかざすことがとても苦手だ。
 今日(ひとまずこれを書いている初日)にあいさかさんと食事をすることになった。話をしていて「自分には言葉がないなあ」と感じていたけれど、なんとか相手に受け取ってもらえるように認識や、表現を共有できるように気を付けている。だから、会話としてギリギリ成立していたのかもしれないが、こういう事態は、何も今回に始まったような話ではなかった。

人と話していると、語彙力が消えてしまう体験がよく起こる。ただしぼくにとっては、この語彙やさまざまが消え去ってしまっているような感覚が好きだ。この「体験」は、井筒俊彦の言葉を借りるならば「言語脱落」などと呼ばれるらしい。

むろん、サルトル的「嘔吐」の場合、あの瞬間意識の深層が垣間見えることは事実である。もともと言語脱落とか本質脱落とかいうこと自体が、深層意識的自体なのであって、それだからこそ「存在」が無分節のままに顕現するのだ。しかしサルトルあるいは『嘔吐』の主人公は、深層意識の次元に身を据えてはいない。そこから、その立場から、存在世界の実相を観るということは彼にはできない。それだけの準備ができていないのである。だから絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。 「意識と本質(井筒俊彦)」序章より抜粋

すなわち、その時にぼく自身は生身であったといえる。これは例えるならば、家族・友人・恋人・会社などの有形無形問わずにある「関係性」から自分が脱した状態、それは独り立ちだとか、離別だとか、離職・独立だとか直後に起こる「世界対自分」のような感触。

さて、これは恐らくコンプレックスの裏返しなのだけど、ぼくには何もない、また何者にもなれないし、何かを上手に語ることも勿論できない。しかし、手触りや形のあるモノ・コトが(その時点でひとまず)自分に存在していない状態から放たれる言葉は、その時点でぼくの言葉、つまり生身のぼくなのだ。この、ぼくに属している言葉の範囲で、何かを考え、作り、あるいは作り変えている。この限りにおいて、地に足の着いた文脈は続いていくだろう。

この頃になって、ぼくには来週とか、来月とか、あるいはそれ以上の期間を持つ予定は苦手らしいということがわかってきた。「今日」とか「明日」しか、自分の持つ時間感覚が存在しないような気がする。「将来」なんて言われてしまうと、途方もなさに呆然とする。もはや、今日のことさえも覚束ない毎日を、いま過ごしている。

それでも、生きていればいつの間にか、知らない時間に知らない予定が入っていたりするものだろう。にもかかわららず、残念なぼくの視界は明日までしか届かないから、その先は、無いようにしか感じることができない。笑ってしまうくらい、ぼくはどこまでも即物的で、地に足が付きすぎている。見えないものは無いし、無いものを考えることも難しい。だから、ぼくにとって明日以降のイベントは、闇の中から突然やってくる。その突発的なイベントを楽しめるよう、外側のツールを大いに活用することで自分をうまく使おうとは試みている。ぼくは、ぼくの触れられる部分にしか影響力を持つことができない、なんてことを痛感する日々だ。

しかし、たとえば仕事は仕事なので、プロジェクトなんかは平気で数か月後の納期を要求してくる。明後日までしか視界が拓けていないぼくに対して、暗闇の要求をしてくるなんて毎度気が狂っていると感じている。けど、あの類のプロジェクトは個別に管理すべき作業があり、ガントチャートが設定されたりする。ぼくの場合は「いつまでにこれをこなさなければいけない」という感覚ではなくて、〆切が近いから今日やり切らないと闇に流れかねない、という強迫観念によって、タスクごとにどうにかこなしている。

だからなのか、ぼくは〆切は結構守れるほうなのだ。今週中にやらねばならないことを、それぞれ明日までにやらざるを得ないのだから、いつの間にか出来上がっている。ぼくには「出来た」か「今日やる」の二種類しかなく、いつの間にか終わっていることも多い。

ところで、環境的にもぼくにはなかなか知り得ないことだけれど、何かを書いたり、生み出したりという人間たちは、本当に苦労していることだと思う。

一般的に、一人で生活をしていて、いつの間にかアイデアが起こっていくなんていう奇跡は起こらない。だから、アイデアが生まれるという触発作用を起こすためにいろんな気の掛け方がある。たとえば、アイデアとか、発想というのは最初の段階から認知できる形になっていることは少なく直観的ゆえに、その「形にならない何か」を追う作業というのが、ぼくにとっては「かく」ことによって追求される。わざわざ、統一的に理解されることがない「ことば」なんてものを使うのだから、平常的な経験や知識をリワードすることを、喜んでアナロジカルなどと言ってみたりする。しかし喜びも束の間、発見は疑問を呼び、何かしら言葉をつかって更に表現していこうとする自分自身にとっては、一生、この生み出そうとする苦しみを味わい続けるしかないと諦めている。

何かを生み出そうとするとき、さきほど書いたような形而上的体験として「言語脱落」がある。ぼくがこの感覚に恍惚としてしまうのは、先ほど書いた体験の通り、そのとき、その場所で、ほんとうに生身の自分であるように思えるからだと思う。その状態から出てくるものは、ぼくにとって切り離せないものだし、付け焼刃なんて大した意味もなく、自分を意味論的に存在付けることの滑稽さがこちらへやってくるのだ。

ぼくの今は、この「切り離せないものたち」によって作られている。切り離せないことは、手放せないのではなく、卑しくも付いて回るという感覚に近く、それが何であるかに気付けるようになったとき、ぼくは何を表現していきたいかがわかってきた。

ちょうど最近、面白い対談がWebに公開されていた

読書猿 (…)詳細化して自分の手に負えなくなったアウトラインは捨ててしまってゼロから書き出すと、自分の頭のなかに書ける範囲のものだけが残ってるんですよ。 ジセダイ、『第2回 制約と諦めのススメ』、連載「苦しみの執筆論 千葉雅也×山内朋樹×読書猿×瀬下翔太:アウトライナー座談会」

まさに、ぼくの感覚はここにあって、ぼくの表現できる限界は、ぼくという枠のはるか外には表れないのだ。何かを生み出そうとする苦しみから一度離れるには、集め、忘れ、自分の中に最後まで残る粕に目を向け、ベクトルを定める。そしてその見えたものに向かって、自分自身に意味論的な転回を迎えさせる必要がある。その、連鎖なのだ。だからぼくたちは、その連鎖を続けるために、自分というアウトラインが自律的にアップデートされていく身体性を担保し続けなければならない。

直観的なひともいれば、経験論的な人、派生的に論理へ遡るようなひともいるだろう。その当人によって何が必要なのかは結果論でしか語れないだろうけれど、到達すべき場所は、その人のアウトラインがその志向性をもって教えてくれるんじゃないだろうか。

だからこの話は、最初から最後まで心性の話ではなく、身体性という話なのである。

何を書いても、何を考えても、背景にあるのは「実践による(ぼくの)世界制作」である。でも例えば、ほかの人ならばどうだろうと考えてみる。その人の世界観をいかにしてつくっていくか、その人のまなざしをどんな風に色付けしていくのか、その過程にぼくは携わってみたい。趣味や面白さを仕事とする順番ならば、ぼくはこれを仕事にするだろう。

個人的なこれまでを振り返り、自分の経験や知識をどのように昇華してくかという思考プロセスを踏むことが、アナロジーを作動させる要件だったとぼくは感じている。そのプロセスや、出発点、あるいは到達地点はいまの段階、もしかすると最後まで明確な言葉にならない可能性がある。ただし、その輪郭を掴むためには、言葉、記号、線、音を費やしていかなければならない。ぼくたちは、わからないことを追い続けるかもしれないが、それが何であるかを、あらゆるツールによってはっきりさせようとしなければ、虚無に昇華されかねない。

ぼくがやろうとして、かつ書こうとしている偉そうな転回論は、実践的な身体論の側面があり、それをかなりの部分担保しているのはニュートラルという状態である。ぼくはこれから、自律的なアップデートを”続けてしまう”ように身体性を磨いていきたい。その自律性には、意志の力は介入せず、あくまでオートメーションなのである。その自動的な作用を甘んじて受け入れられる身体という皿が、ニュートラルなのであり、知力も、スキルも、背景も一旦は関係のないものである。

ニュートラルな状態とは、もっと肌に合う言葉を使うならば「動的平衡」とも言える。福岡伸一の動的平衡に「近代の思考は、あまりにも機械論的に生命を、そして世界を捉えすぎてきた。」とある。これは生命のみに限った話ではないと思うが、確かに個人レベルであっても現象を言葉によって切り取り、切り取った言葉を記号として扱ってしまう。この動的平衡に思考を寄せていくならば、ぼくたちに起こる様々な「不」は、ぼくたちのバランスを維持し得ないときに発生するリアクションとして捉えられるだろう。

すなわち、必然的に起こった変化までも、ミクロで変化していても、マクロでは変化していない状態だとして、果たしてそのミクロなどを関心物として扱うことで、果たしてどれほどの展開が起こりうるのだろうかと感じてしまい、興味が持てないでいる。

さて、オートメーション的な作用を自動的に引き起こすには何らかの刺激が必要であると思う。視野は外へと向け続けるしかないが、たとえばそのあたりに転がっている「日常外の動作」は確かにライフハック的ではあるなとハッとすることがある。行かないところへ行く、読まないものを読む、見たくないものを見るなど、ランダムな引力に身を投げ出すことは、ぼくの理には適っている。

個人レベルの話ならば、ぼくは本屋や図書館へ行ったとき、まったく興味のない棚へ必ず足を運ぶようにしている。音楽や、理工系の棚は普段あまり興味があるとは言えないので、あえて足を運んでいると、気づきを得たりする。また、図書館での排架や、本屋での陳列方法にどのような仕組み、狙いがあるかを考えてみたり、あるいはその狙いと反対側にあるのはどこだろうかと考えてみたりすると同じ場所でも得られる知見は数倍になっているのかもしれない。

一方で、ぼくはコンビニではなされるがままに買い物をし、家電量販店ではスピーカーやイヤホンのコーナー以外に目を向けず、演奏会ではじっとしていられない一般人だ。そこに詳しい人がいれば、ぼくはまた制作的な味わい方が変わってくるのだろう。

視野を外に向けていくと、だんだんと自分の矮小さに気づいてしまう。これは逆説的になるかもしれないけれど、自分という矮小な存在を拡大・充足させていこうとする行為と、自分というものに留まろうとする行為は、随分先でしか統合し得ないような予感がずっとある。自分のことをいろんな側面で言葉にしていくのはもっとあとで良い、むしろ死ぬまで何者でなくても良い。

ぼくたちが何もしなくたって、きっと世界は進む。どうせなら、どう「遊んでみるか」に流れていこう。

今回の修正PDF

書:Nekondara

Written by Nekondara
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