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「自分の言葉で書け」の呪いを解くための思考

愛するように文章を綴ろう

自分の言葉で書け――っていうことを良く言われるんだけれど、マジで疑問なんだよね。
 自分の言葉ってなんだよ。自分で書けばそれは全部自分の言葉なんじゃないの? それとも、「誰々の」は別に「誰が書いたか」を意味しないってことか。じゃあ一体どんな意味がある? 「言葉」はどうすれば――自分のものになる?
 今回の記事は、ここをテーマにしたい。自分の言葉とは何か。もう、「自分の言葉で書け」なんて言われたくないもんね。

まず、私の根本的なスタンスを表明したいと思う。私はこの、「自分の言葉で書け」というアドバイスが大嫌いだ。マジで意味が分かんない。反発したい気分すら芽生える。「こいつ、具体的なアドバイスが思いつかないからこんなこと言ってんだな」って感じ。
 私だったらこんなアドバイスはしない。具体的に過ぎるアドバイスが、たびたび適切でないケースがあるにせよ、もう少しマシなアドバイスを考えてあげたい。そもそもこの自分の――言葉で――書け――というアドバイス自体、安直で、抽象的で、誰にでも言えるものじゃないか? 先回りした指摘になってしまうかもけれど、言ってしまおう。「アドバイスくらい自分の言葉で言え」。

とはいえ、私はこの「自分の言葉で書け」というアドバイスを全否定するつもりもない。基本的に、良く言われるアドバイスというのは大方正しいと思っている。例えば「難しい言葉を使うな」とか「文章の構成を意識しろ」とか「読者を意識して書け」とか。
 基本的には――「自分の言葉で書け」というアドバイスも含めて――その通りだと思う。難しい言葉ばっか使っている文章とか、構成がまったく意識されていない文章とか、読者がまったく想定されていない文章とか、そういった文章は――誰かに読んでもらう文章を書く上では――明らかに良くない気がする。良く言われるからにはそれなりの理由がある――と言うのが私のスタンスだ。
 だから、「自分の言葉で書け」を今回は考えてみようってわけ。嫌いだけれど、全否定しないように、その言葉の中から使えるところを探す――そして、もう自分の言葉で書けなんて言われちゃうような文章を書かないようにするんだ!

そういうわけで早速考えてみよう。大前提を確認したい。そもそも「自分の言葉」というものは本当にあり得るのか?

あなたを愛しています――という言葉がある。プロポーズにしてはなんて無個性な――まさに自分らしくない言葉だ。テレビをつければ一日一回は聞く。ドラマを見れば愛してます愛してます。ほんとかって言いたくなるレベル。
 しかしこれは誰の言葉だろう。今、私が「あなたを愛しています」と書いただけでは、無論誰の言葉でもないと思う。まず「あなた」もいないし。「愛しています」が何を表すのかもよく分からんし。書いてて思ったけれど、「愛しています」ってマジでヤバいな。意味なさ過ぎて笑う。
 辞書には――「一、かわいがり、いつくしむ。愛情を注ぐ。二、(性愛の対象として)特定の相手を慕う。恋する……」と書いてある(goo辞書)。ここから分かるのは、基本「誰かが」と「誰を」とがはっきりしないとほとんど意味のない言葉だって感じか。だから私が「あなたを愛しています」とここで書いても空虚に響くだけなんだと思う。何にもないから。「洗濯しています」ならイメージが湧くけど。

もしこんな感じで文章を書けば、「自分の言葉で書け」って間違いなく言われるに違いない。そこは「あなたを愛しています」じゃなくてもっと他にあっただろう――みたいな。
 だけれど実際はそうでもない。プロポーズで「あなたを愛しています」って言われたらめっちゃ興奮するよね。あるいは自分がする側だとしたら、アホみたいに緊張すると思う。「愛しています」という言葉はあまりに重い。しかもそれが、目の前の「あなた」に向けられ――かつそれを喋るのが「わたし」ならば、尚更。
 なるほど、そうなればそういう状況で発せられた「あなたを愛しています」は「自分の言葉」と呼んでもいいのかもしれない。でもやっぱまだちょっと弱い気がする。「いいけど、やっぱりなんかオリジナリティがないよね」なんて言われる可能性を否定できない。嫌すぎる。個性的な文章を書いて、「自分の言葉で書け」という人間を黙らせたい!

しかし、オリジナリティのある文章とはなにか――ということを考え出すとすぐ分かることがある。それを書くのは――極めて困難だってことだ。少しでも文章を書いたことのある人なら共感してくれると思う。

伝わる文章を書くというのは、「みんながよく分かる言葉」を使うことと同じだ。つまり、よく使われる表現を利用する仕方で書くしかない。ありふれた表現にがんじがらめになりつつ、もがくしかないってわけ。好きな言葉をより集めただけの独りよがりな文章はダメだし、造語などはもっての外だ。だって伝わんないし。
 もちろん、詩にはそういう文章とは違った趣があるものもある。あるいは純文学とか。独り言とかメモもそうだよね。でもそれでも――「よく分からないこと」が「オリジナリティのある言葉」として評価されることはほとんどない。というのも、そういう言葉でさえも「詩的だよね」って言えちゃうからだ。どんなにひねったって「詩的」「純文学的」「メモ的」とか言った言葉で回収されてしまう。そもそも詩が、ひねられたジャンルだと想定されているからだ。ひねることを期待されているジャンルでひねったってオリジナリティなど出せない。つまり、単にひねっただけでは不十分なのだ。

そういう場所では、どんなにぶっとんだ文章を書いても本当の意味で「自分の言葉」にはならない。ぶっとんで書いても、「ぶっとんでるね」って言われるだけ。奇を衒っても「詩的」だなあ――とまとめられる。その瞬間オリジナリティは失せ――代わりに凡庸さがちらりと顔を見せる。やっぱなんかありきたりだよなあってことになってしまう。
 ちなみに「月が綺麗ですね」は却下だ。そんなん急に言われてもわけが分かんないでしょ。そんなことより団子食え!

もっと言えばこんな話もある。そもそも純粋な「自分」なんかないんじゃないの――っていう。一見元も子もない話だが、現代思想――特にソシュール、フロイト、フレーゲ以降――では、自分(哲学の文脈では「主体」)を前提とした考え方を疑問視する見方が実際にある。
 ここでは、「私」を中心とする哲学をド直球に批判した哲学者、ジャック・デリダの思想を参考にしてみよう(参考:『声と現象』)。例えば「私は生きている」という文章があったとする。このとき、「私」は生きているのか死んでいるのか――それはどちらでも構わない。例えば、この「私」がシェイクスピアだった場合は確実に死んでいる。でも一方でシェイクスピアが「私は生きている」という文章を書いていたとしても、それが間違いだということにはならない。つまり、「私」が生きていたとしても死んでいたとしても、「私は生きている」という文章の意味には関わりがないのだ。
 それは、逆に言えば「私は生きている」はその否定――「私は死んでいる」をあり得るものとして含んでいなければならないということである。簡単に言えば、「私は生きている」は常に既に「私が死んでいる可能性」を伴って把握されるということである。デリダはこのことを「私の死は、〈私〉という語を発するのに構造的に必要不可欠である」という言葉でまとめている。 このことは、近代哲学――特にデリダの場合は、現象学の祖とされるフッサール――の理論の根底を揺るがす。というのも、近代哲学は「主体」――「私」の現前性――「私の生」――を前提として組み立てられているからだ。その象徴的な思想家は「我思う、故に我在り」のテーゼで有名なデカルトである。「自分」を出発点にした哲学に、デリダはひびを入れた。
 現代思想によれば「自分」は常に「非-自分」を内に抱えているというわけだ。この「非-自分」は単純に言えば「他者性」とか「他性」とも言い換えられる。「自分」は常に「他者」に脅かされているというわけだ。そんなところで「自分の言葉」を主張することは無理なんじゃないか。どうしたって、他の人の力を借りなければ、何かを主張できない! 言語的にも――もっと壮大なことを言えば存在論的にも。私たちは、他者に身を委ねてしか生きることすら適わないのだ。

そういうわけで、人は「自分の言葉」を決定的に持つことができない。そもそも「自分」も「言葉」も人から教わった言葉だ。だから「自分の言葉で書け」というアドバイス自体、「自分の言葉」ではない。誰もがもっと「言葉」の強力さを見つめなおすべきだと思う。言葉はやばい。言葉は常に「私の死」を伴っている。それも決定的に。
 存在を一番に主張する「こんにちは」なんてまさにそうだよね。みんな、この言葉の意味なんかよく分かっていないくせに、あいさつで使っちゃっている。あいさつの度に、私の死が暗示される。「自分の言葉」なんて、夢のまた夢なんだよ……。

じゃあ、「自分の言葉で書け」って言っている連中は、無内容なことを喋っているだけなのだろうか? というとそれもまたちょっと違うと思う。
 先のお話によって、私たちの「自分」にひびが入った。「自分」は常に「非-自分」を伴っている。だけれど、「自分」がないわけでもない。「自分」を前提とした考え方がダメだってことだった。「自分」は作りだすものである――逆に言えば読者は、作者の「自分」をその文章の中から読み込む。つまり仮想の「作者」をその文章の中で、後から組み立てるのだ!
 その文章から「作者」を組み立てることができなければ、「自分の言葉じゃない」ということになるんじゃないか。例えば、スタンスが一定しないユーチューバーを考えてみたらいいと思う。あるところでは政権批判をしていながら、一方では政権を褒めだしたりとか。「こいつ、サイボーグなんじゃね?」って思えてくる。「作者」を組み立てることができないとはこういうことだ。これには、「もっと自分を持てよ!」って言いたくなる。「自分の言葉で書け」というアドバイスにはこういうところがあるんじゃないか。読者が、「作者」の線を引き結ぶことができるか――これが「自分の言葉を書け」で言おうとしていることだろう。

もちろん、そういう「自分」すらも逃れようとするような文章を書く人も結構いる。例えば先に紹介したデリダはそうだ。「自分」が構成してくるたびに、破壊し、書き変える。そうやって「書くこと」を延々と考え続けた。
 ドゥルーズはもっとやばい。ドゥルーズはあらゆるスタイルで文章を書き、絶えず中心化してくるような「自分」の位置をずらし続けた。道路に無秩序に生えてくる雑草のような存在を描く彼の思想から「自分」を見つけるのは非常に難しい。もうここまでくると「自分の言葉」とかなんとかで悩むことがアホらしくなってくる気もするけれど――そういう思想家もいるってことは知っていてもいいかもしれない。

じゃあどうやって人は「自分」を組み立てているのか――これを一挙に説明するのは難しい。そういう意味でも「自分の言葉で書け!」というアドバイスは不親切だと思う。まずは、「なんで『作者』が見えないのか」を考えてあげたい。「自分」には、常にひびが入っているわけだからね。だから――「アドバイスくらい自分の言葉で言え」というわけだ。マジで、本当これよ。「自分の言葉」とは何か――みたいなことをもっと深く考えよ!

「自分の言葉」をどうやって書くのか――この問いに答えるのは難しいけれど、一方でヒントがないわけでもない。この記事の途中で、「あなたを愛しています」という例を出した。無内容で、無個性な――でも、ある場面では非常に重いものとなるこの言葉。この言葉を「自分の言葉」にしたい。でも、どうすればいいのか。もしかしたら、こうやって悩むことこそが言葉に「重さ」を生むのではないだろうか。私たちは今までどんな風に過ごしてきたか、好きだという気持ちを日頃から伝えられていたか、どんな思い出を共有してきたか――全ての事柄をこの言葉に、“私は”乗せられるのだろうか。
 この緊張感が――「自分の言葉」に由来するんじゃないか。――漠然とだけれど、今私はそんな風に思っている。愛するように文章を綴ること。これが、「自分の言葉」を模索する第一の出発点だと――私は思う。

Written by Koyuki
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