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メイド喫茶は私にとってのアメージング・グレイス

いまはむかし、オタクの棲む街の道路沿いの建物の一階に、ガラス張りでオープンなコンセプトカフェがありました。白と青のミニ丈アイドルライクなメイド衣装を身に着けたキャストが特設ステージで踊ったり、客人気をゆるく競い合っていたりしていたのを覚えています。広い敷地面積、多数のキャスト、チャージ料はなくてサービス提供はゆったりしており、客はただの客でしかなかったため客とキャストの関係もしなやかでした。そこには強度の高いフィクショナルな世界観がなかったから、妖精さん、というと本家のそれとはまったく異なってしまうので自称しにくいのですが、そこのバックヤードや音響スペースで妖精もどきをしていたことがあります。

すでにうまくいっていたライブハウス系のレストランの手法を横展したビジネス形態で、イベントは大小問わずもれなくライブ配信がありました。ニコニコ生放送と、いまは亡きユーストリーム(Ustream)の二本柱。いま思うと先駆的でした。通えないひとでもたのしめるような配慮は本格的で、ライブ配信のカメラアングルは最前の客も映り込む正面俯瞰カメラ・正面近接カメラ・下手近接カメラ(ややローアングル)の三カメあって、カメラスイッチャーも音響の役目です。音響よりもカメラスイッチのほうが繊細で難儀しました。裏方の人数が足りているときは、下手近接カメラを三脚ごと機動させて追いかけや動きのある映像も配信していました。演者側のカメラアピールはアドリブなので全体の連携が生命線でしたね。

自信があるキャストも、自信のないキャストも、意欲的なのは共通していました。どうしたら客によろこんでもらえるか、ありがとうって言ってもらえるか、かわいいねって褒めてもらえるか、元気や勇気を返せるか、今日明日の希望を見せてあげられるか、また来たいって心から思ってもらえるか。それぞれが創意に富んだアイデアを抱えていて、「キャスト」や「メイド」や「かわいい」や「お客さん」という共通言語に関する思想にグラデーションを持っていて、お店のルールのなかでじぶんの考えていることを実行しようと狙っていて、その結果が裏目に出た日には悔し涙でメイクがくずれたり、うまくいった日には上機嫌で電気街口前の広場で雀躍するようによろこんでいました。あるいはいきなり全部が虚無になってシフトから名前がなくなったり。

当時の在籍店のキャストたちは、演じたり演じなかったりします。それは積極的になにかを演じたいからというよりも、店と客とほかのキャストとのあいだに生じるダイナミズムに応じて、ほとんど勝手に配役が決まってしまうからだと思います。聖母じゃないのに聖母役をやっていたり、天使じゃないのに天使役をやっていたり、天然じゃないのに天然役をやっていたりしました。一方で、客は観劇したいわけではなくて、天使役の天使ではない側面も満喫してくれます。つまり、役割と個性のあわいに暗黙の(しかも逆照射的な)コミュニケーションがあって、それが広がれば広がっていくほど客はたのしんでくれているようでした。VTuberが急にちゃんとロールプレイをやったり思いきりサボったりして、そのどちらにもスーパーチャットを投げたくなるようなミドルポジションが魅力につながっていくのとおなじような気がします。

あるいはその位置関係の制御の半分は客にゆだねられているとも言えます。一般的な自動車はドライバーが運転してようやく価値が生まれるのと同様に、コンセプトカフェも「コンセプト」に同意してくれて、演技と非演技の中間をいっしょにたのしんでくれる客があって初めて生まれる価値もあります。もちろん長く通うひとのなかには、そういったものをあえて省略するひともいて、じぶんにとってちょうどよい価値を探索しています。

そういう私は「私設図書館シャッツキステ」という秘密基地図書館のような内装のメイド喫茶がいちばんちょうどよかったです。チャージ料を支払っているうちは紅茶のおかわりが自由で、ときどき「おかわりいかがですか」と回ってきてくれるクラシカルメイド衣装のキャストと一言ぐらいやりとりがあるだけでした。店内中央でキャストが編み物しているのを見守るぐらいの距離感が不可侵で尊く、その限られた時間が無限よりも長く感じ得るひとつの祈りだったわけです。

シャッツキステ時代の経験や発見から、「接客じゃない質の接客」が好きになりました。これは説明がむずかしいので本文全体から感じていただきたいのですが、過剰に増えていってしまう「もっと!」という気持ちや欲望を一定のラインで刈り取ってもらえる負の接客(マイナス方向への接客)です。わかりやすくアイドルの特徴と比較すると、アイドルライクな接客は「もっと!」の火に油をそそいでくれます。これはこれでめちゃくちゃ元気になるので好きですが、一方で、私の好きなメイド喫茶的な接客は、「もっと!」をなだめてくれたり、抑制して初めて享受できるたのしさや豊かさがあるという事実にアンダーラインを引いてくれたりします。場のよさをさりげなく指し示してくれます。居心地をていねいにあつかってくれます。淑やかさ、おとなしさ、穏やかさ、和やかさのベクトルでたのしませてくれます。私の言いかたにすれば、「ワーシップワージー・アテンダンス worship-worthy attendance」を愛することの幸福を知りました。心を捧げるに値する接客という意味です。業界一般で「お給仕」と呼ばれる接客には、そういった逆説的な理を生み出すための信仰的な(文化的な)上下関係があると思います。

逆にプラス方向の接客という意味では、じぶんに気力があるときは「あっとほぉ〜むカフェ」に出向いて、愛込め(萌え萌えキュン)に全力で乗っかりたいと思うこともあります。友人はフラれた相手の名前をオムライスに書いてもらって爆食いしていました。アイドルと言いながらも、あっとほぉ〜むカフェのキャストはそういう惨めさも受け入れてくれるし、よろこんで知らない女の名前を目の前の客のためにケチャップでしたためてくれます。つらい現実を包み込むだけのフィクショナルでハレな六十分を千数百円で体験させてもらえる祝福的な場所だと思います。毛色は異なれど、お給仕を全うされており信仰的です。

話を元に戻しますが、なんにせよ、演じたり演じなかったり乗っかったり乗っからなかったりする、その多値的な状況や濃淡が、私の感じているコンセプトカフェの特徴のひとつです。言い換えれば、時にじぶんのためだったり時に相手のためだったり、そのどちらなのかじぶんでもわからなかったり、すでに常に判別不能だったりすることがよくあります。それを出来合いのことばで決定しようとするとじぶんのなかの限られたレセプターを持ち出すしかなくて、「飲食のテイで若い女の子を消費する」という側面から理解しようとキャバクラと比較するひともいれば、「応援する代わりに元気をもらう」という要素から了解しようとアイドルと比較するひともいます。いろいろです。ひとつ言えるのは、客側がそれをなんだと思っていようとできるだけ受け入れてくれようとするおおらかさが、私の感じるコンセプトカフェの魅力のひとつです。

そのおおらかさを目の当たりにするたび、私の目にはコンセプトカフェがチャペルとして映るようになりました。受け入れがたいものがあったとき、受け入れるか受け入れないかで言えばできるだけ受け入れるほうを選ぼうとする姿勢は、在籍店だけではなくよそのお店に出かけたときもけっこう見られました。もちろんお店のキャパシティを超えれば出禁や禁止ルールという対処になることもありますし、キャスト個人の許容量も区々ですが、それでもみんなが限界を手探りしようとしてくれている様子は「オタクキモい」の六文字で排除されてきた側の私としては心底うれしいことです。令和になったところで外の世界に出ればいまだキモがられることもある一方で、私の通う店舗ではひとりの過客(sojourner)でいられることの有り難さを感じます。

とくに「本とメイドの店 気絶(きぜつ)」では、初めて訪れたときから「この場所にあなたは居てよい」というメッセージやシグナルを浴びるほど受け取りました。キャストはそのメッセージがちゃんと客に届くようアンダーラインを引き続けていて、たのしげで誇らしげです。常連になってもずっと新鮮な過客、軽やかなソジャーナーでいられる稀有な場所だと確信しました。(気絶はメイド喫茶やコンセプトカフェではなく、あくまでメイドのいるブックバーだそうです。リンク先参照:『なぜ気絶はコンカフェと呼ばれることを頑なに否定しているのか』。)

気絶のキャストは、それぞれが持っているものを自然に見せてくれるように思えます。もらえたらうれしいチョコパイの数を真剣に算出していたり。急にメンタルやられてホテルを予約し始めたり。お客さんの恋愛話に心揺さぶられたり。焼酎ホットの昆布茶割しか飲まなかったり。お人形さんみたいだなと思っていたらホロライブについて高速オタク語りしてきたり。インターセクショナリティについて意見交換できたり。それぞれがいまいまで熱中していることなどを好きに話してくれるので、こちらも応じるようにしてじぶんのことを語りたくなります。

おなじ話を継ぐとすれば、「メイド喫茶 橙幻郷(とうげんきょう)」の居心地も非常によくておすすめしたくなります。メイド喫茶では来店することを「ご帰宅」と考えるため、「おかえりなさい」という晴れやかな掛け声から対面することがおおいのですが、橙幻郷のおかえりなさいの気張らずアットホームな湯加減が私にはほんとうにちょうどいいわけです。愛込め的な大文字のアキバカルチャーはなくとも、ゆっくりくつろげて、ハンドメイドな温情に触れて、人生の深刻な側面をほんの数十分のあいだ忘れることができるお店です。

私自身、橙幻郷では「甘やかす」ことの大事さを教わりました。それは相手のためでもあるかもしれませんが、それよりもむしろじぶんを甘やかすことができない人間だったので、だれかを甘やかす行為を通じてじぶんを甘やかす心理面接的なことをさせてもらえたのも得難い経験でした。当時の在籍店ではゆるやかな競争があったので甘やかすという概念が希薄でしたが、橙幻郷の家族のような一体感や体験は、連携すること、協力すること、許容することを教えてくれました。

特定のキャスト個人ではなく店舗のことを愛好したり敬したりすることを、アイドル文化から借用して「箱推し」と呼びます。私にとって箱推しの原体験は「プロ野球」で、西武ライオンズというチーム全体のことを応援していました。シャッツキステも、気絶も、橙幻郷も、箱推しです。一方で、箱推しであっても「だれ寄り」という好みの部分があるもので、私の場合は「ゲーム」「哲学」「日本語ラップ」のどれかの話がわかってくれるかたがいれば、性別を問わずにそのキャストに寄ります。もちろん私の理想としているお給仕スタイルと類似するところ(アウトプットの雰囲気が一致しているところ)があれば、それはあらためて「推し」という形式で推さざるを得ないです。

プロ野球でもお気に入りの選手はいましたが個人成績よりもむしろチームに貢献しようとがんばる姿がかっこよくて、その選手とチームの関係、先輩後輩の愛憎、同期とのノリ、感情の組織的な背景、チームを離れたあとのチームに対する振る舞いなどを追いかけるのが好きでした。コンセプトカフェの箱推しという活動を通じて、プロを夢見る野球少年だったあの頃の私に戻れたような気がします。

また、箱推しという文脈のなかで、「成長を見守るたのしさ」をコンセプトカフェの魅力のひとつとして語る向きもあります。私は近い世代のキャストがおおいためあまり趣を深くわかっていませんが、それでも「パウンドケーキ初めてつくってみました」と言われて、それはそれはと注文し、バターと卵が乳化していたり小麦粉のグルテンが出すぎてしまっていたりするモノを食べた何週間か後に、おいしいパウンドケーキがあらためて提供されたときは涙が出そうになります。最初はでこぼこのプリンでも何回か失敗するうちに腕前はあがっていくもので、こうした上達に貴賎がないことも学ばせてもらいました。キャストのうまくいかなかった振る舞い(misbehave)に目くじらをたてるのではなく、受け入れたほうがたのしいということも教えてもらいました。

とはいえ、成長を応援することは成長を楽しむことであり、同時に教育的な目線、批判的な目線をもつことに直結していきます。キャストの成長から感動を得るかぎり、私自身にもそういったプロデュース願望・エグゼクティブ願望は生じますが、これについては可能な範囲で抑えるようにして、最初に教わった「甘やかすこと」に何度でも立ち戻っていきたいと思います。

We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.

賛美歌の名曲『Amazing Grace』には、上記のような歌詞があります。「神への称賛を初めて歌いはじめたとき以上に私たちはそれを歌い続けることでしょう」と訳せるでしょうか。もうすこしわかりやすい日本語に訳出したいですが、もとが英語らしい表現なのでぎこちなくても仕方ありません。

この「神」の部分を「メイド喫茶から教わったこと」や「推し」と言い換えれば、そっくりそのまま私の言いたいことの結論になると思います。

メイド喫茶や推しから教わったことへの称賛を初めて歌いはじめたとき以上に私はそれを歌い続けることでしょう。

シャッツキステの不可侵な祈り、橙幻郷のハンドメイドな温情、気絶の過客的な居心地。そういった得難い経験が私のなかに蓄積されている実感があります。その最初の体験をつなぎとめておくために、私はメイド喫茶から教わったことへの称賛を歌い続けるでしょう。

最近の話もひとつ。気絶の近所で新規オープンした「メイド喫茶 最果て」にお邪魔することが増えました。

最果てでは赦しを感じます。私は2014年からメイド喫茶をたのしんでいたのですが、コスト構造上どうしても均質化してくるメニューがあって、たのしんでいた気持ちも減退していきスレッショルドに達して胃もたれすることもあります(無理して多品オーダーしてラミネート加工のカードをコンプリートするなど)。一方で、最果ては典型的なコスト構造から距離をとって〈メイド喫茶〉とは異なる仕方でメイド喫茶を営んでいるように思えました。好きだったものがそんなに好きではなくなってしまってダメダメを自負していたネガティブオタク心に対して、「よくもわるくもそういう構造だよね、ここではゆっくりしていいからね」と言ってもらえているような気がします。

いろいろな店ができて、よくもわるくもこうした多様性が生まれるおかげで「ちょうどよさ」と出会える可能性がひろがっていきます。異なる場所を用意してくれることで、おなじ店に不満を抱えながら通いつづける不機嫌な古参にならずに済みます。それは端的に救済と表現できるでしょうし、容赦ととらえることもできるでしょう。これはオタク特有のバカデカ大げさ表現ではなく、私のリアルな心情でもあります。おかげさまで前から好きだった店をあらためて好きになれる余裕が生まれます。最果ての存在のおかげで、秋葉原のことがまた好きになりました。

最果てには赦しのベースがありながら、キャスト自身が付け足したい要素をイベント化して実現している様子も見られます。ふだんとちがう衣装でオーソドックスな季節行事をやったり、男装で酒をあおったり、緊縛ショーや緊縛体験を提供したり。最果ては〈最果て〉としてひとつの境界区分を守りながら、キャストに最果てを貸し託しているように思えます。

七年前のじぶんは、メイド喫茶なんて「ひとつ」だと感じていました。在籍店のことしか知らないから、ナイーブな世界観で生きていました。そこから大手にも足を運び、老舗にも訪れ、土台にストーリーがあるフィクショナルな店舗や、逆にぼったくりと評されている場所にも行ってみて、メイド喫茶やコンセプトカフェが「たくさん」であることに触れました。たくさんを知ることで、やっぱり「メイド喫茶そのもの」というこの世に唯一のものが好きであるじぶんに気づき、もう一度「ひとつ」に戻ってきます。「ひとつ」と「たくさん」の両方の驚きのなかで揺れることで、じぶんのなかのメイド喫茶への確信はより深くより強くなっていくのを感じます。

Written by Aisaka, Chihiro
Copyright LagonGlaner and Author

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