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やさしい金縛り

キーボードを叩くときの音が好きだ。生きているという感じがする。なぜそんなふうに思うのかはよくわからない。けれどとにかくわたしは、自分が叩くキーボードの音を聞きながらであれば、肺いっぱいに溜まった存在の悲しみをうまく吐き出すことができるのだ。今、まさにそうしている。わたしは文章の内容を考えているのではない。ただキーを押しているだけ。しかも、キーを押し下げるというその運動じたい、誰かに操られてやっているような感じがする。怖くない金縛り、みたいな状態になっているうちに、目の前の画面上では勝手に文字が増殖していく。そうして生み出されてゆく文章からは、たとえ書いた直後に読み返したとしても、いっさい親密さが感じられない。つまり、自分が書いたものとはまったく思えない。それがとても心地よい。生きているという感じがする。

金縛り状態――いわゆる軽い解離状態になっているときに、「生きている!」という感じを抱くのは矛盾している気もする。が、わたしの場合、そこに何ら矛盾はない。自分が能動的に動いているときではなく、思うように動けないとき、あるいは何者かに動かされていると感じるときにこそ、生の実感が湧き上がってくるのだ。

ただし最近は、このような快い実感が失われていた。COVID-19の影響だ。

楽しみにしていた演奏会やディナーの予定が次々となくなっていき、ウイルスの存在を身体的に実感した。音楽を聴きに行くこと、料理をサーブされに行くことは、能動的に受動しに向かう行為である。わたしに生の実感をもたらすのは、あくまでもこのような能動的な受動なのであった。

キーボードに向かうという能動的な行為にもとづいて、動けなくされる、または動かされるという事態が起きる。そこには、動けなくされたり動かされたりする自分と、動けなくしたり動かしたりする自分との間での、確かな合意がある。こうしたやさしい金縛りが、わたしを生かしていた。

それに対して、昨今迫ってくるもの。それは、自粛という、本来は能動的になされるべき行為を、実質的には受動的に受け入れるよう求める圧力だ。これがわたしを確実に殺しに来た。自分の中でうまく保たれていた能動と受動のバランスが乱されてしまった。

受動的であれ、という言葉は、ほかならぬ自分の声で与えられるからこそ心地よかった。今、決して自分ではない誰かの数々が、ロマンティックなニュアンスで、そして大音量で毎日のようにこのフレーズを歌いかけてくる。もうひとりの自分自身の声はすべてかき消され、かつてあった能動的受動の快楽は起動しない。

わたしは過剰に能動的になってしまった。今、自分は、自分以外に向かって何をすべきか? そればかりを考えてしまう。どんどん、意識的に何かを書けるようになった。そしてどんどん、冒頭で述べたようには書けなくなっていった。そのことにわたしは自分の限界を感じていた。しょせん「存在の悲しみ」なんて、環境が安定しているからこそできる「趣味」にすぎないのでは? 自分の存在は、悲しむに足りるものですらないのでは?

しかし今日になって、状況が少し違ってきた。突如として、バランス崩壊のフェーズから抜けた気がするのだ。そして自分が、以前よりずっと自在に、自分の望むように、やさしい金縛りに入れるようになっていることに気がついた。

直接の原因は不明である。しかし、こうなる直前に感じたこと、考えていたことは覚えている。

なんだか多くの人が、わたしの目の前にいながらわたしという人間を見ていないよなあ、と思った。わたしを透かして社会を見てしまっているような人がけっこう多いよなあ、と感じた。そうするとなんだか今、自分はおばけみたいだな。というかたぶん、お互いにおばけなんだな――そう思った瞬間、自分の中でなにかのスイッチが切り替わる音がした。次に、モーターの加速音のようなものが聞こえた――わたしという存在そのものは、ほんとうのところでは、自粛を求められてなどいないのではないか。そもそもあの歌い手らからわたしは、なにかの群の一部としてしか捉えられていないので、一個の存在としてのわたしは、彼らにとって実質的には存在していないのではないか。

そう思ったとき、自分のまわりをぐるりと囲むように、分厚い透明のバリアがそびえ立った。高らかな歌声は急にくぐもり、世界はほとんど静かになった。純度の高い孤独の中でわたしは懐かしいわたしの声を聴く――そうしてこの文章に取り掛かったのだ。

今、とても楽しい。わたしは多くの人々から見えていない。けれどここにいる。自分ではない自分に動かされて生きている。くらげのようにゆっくり漂っている。今は水槽に閉じこもっているが、海に出ていくことだってできるような気がしてきた。なんだか勇気が湧いてきたのだ。

自分という存在は、小さくて大きい、そして軽くて重い、と心底思う。今思えば、以前からずっとそのように捉えていたような気がするのだけれど、それを意識下に引っ張り出したことはなかった。しかし今日の昼下がりに、こういう把握の仕方を急に自覚したのだ。

もしかするとわたしはどこかで、ウイルスに感情移入しているかもしれない。そこにある傲慢さに笑ってしまう。とても愉快だ。ウイルスは生きていないから殺せない。

Written by Sera, Mayo
Copyright LagonGlaner and Author

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