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ホテルの夜勤で働きはじめた話、オテリエとオスピタリテ(L'hôtellier et hospitalité)

朝6時半、フロントに駆け込もうとする英国人の男の子がひとり、清掃器具を持てるだけ持った私の横を通りかかる。私はすかさず立ち止まり、子どものほうに正しく向き直し、“Good morning, sir.”(グッモーニン・サー)と声をかける。

すると男の子は、アジア人の私を認識して、大人扱いの英語を遅れて聞き取り、顔を赤らめて再びフロントにダッシュする。

はあ、かわいい。

超高級と呼ばれる外資系ラグジュアリーホテルの(客室以外の)清掃員として働きはじめて三日目。勉強になることが山ほどある。

たとえば、じぶんの創作のなかになかった概念があらたに実装された。外資系なので壁中に英語の注意書き(コーションプレート、「caution plate」)がたくさんあるのだけれど、そのなかに「Hospitalityを大事にしろ」みたいなことが書いてある。辞書的な意味はわかるけれど、客室ではない部分の清掃の仕事において「Hospitality」というのがいまひとつピンとこなかった。

三日たってわかったのは、相手の生態をよく理解したうえで先回りしておくことがホスピタリティだということである。ホテルのなかで人間がどのように移動・行動するのか、そこにどのような痕跡が残るのか、それを知るところから始めなければならない。

フロントの前にあるローチェアーなら、床から10cmくらいのところに革靴のかかとの擦れ跡(ヒールマーク、英語では「scuff mark」)が必ずついている。極めて低いところにあるので、夜の清掃時や日常的なシーンでは気づきにくいけれど、ふとしたときにゲストの目に留まることがある。なので、夜のうちに床に這いつくばり、濡れタオルなどで刮ぎ、消しておく。

あるいは、ホテルの名前や提供商品のブランド名が刻まれたプレート(銘板、英語では「commemorative plaque」)が付いているものを目立つように正しく置き直したりする。とくに私の働いているホテルは、日本企業とのコラボが多く、銘板の位置などに細かいらしい。

(電通ビルの前、汐留駅と新橋駅のはざま)

なかでも大変なのは、細菌の住処となる大浴場の清掃。「レジオネラ」という菌があって、最近でも老人ホームの加湿器内に発生したバイオフィルム(いわゆる「ぬめり」のこと)に住み着いたレジオネラを吸い込んで感染したニュースがあったし、十年以上前に宮崎の温泉施設でも集団感染のさわぎがあった。

ホテルの大浴場なんてその最たるもので、バイオフィルムのオンパレードとなっている。私の勤め先ではレジオネラへの意識が低いので、誰もマスクひとつしていない。それだけならまだしも、ぬめりを取り除くことへの意識も低いので、ゲストに感染しないか本気で心配になる。

ほかにも、ソファーの隙間に手を突っ込んでパンくずを出したり、窓際のグレーチングに溜まった埃を拭き取ったり、クッションの上下を直したり、ジャグジーのヘアーキャッチー(集毛器)に毛が一本たりとも残らないようにしたり、レストランのひとがこぼしたジャムを清掃員の私の手抜きのせいにされたり、いろいろと張り合いがある。

(汐留の夏)

かなり幸運なことに、私はホテリエ歴30年のベテランに現任訓練で習っているので、清掃だけではなくホテルのあらゆる側面を教わっている。むかしに比べてハード(建物や施設)はラグジュアリー化したが、ソフト(サービス内容など)は劣化したなどぼやいているのをすかさずメモするのが日課となった。ちなみに「ホテリエ」は和製英語で、実際のフランス語では「オテリエ(hôtellier)」と発音する。

人がいないのでOJTもかなり雑で、私の前に三人の新入りが辞めていったらしい。そりゃあそうだと思った。愛されなければ愛しかたがわからないのと同じで、おもてなしを受けたことがなければおもてなしはできないし、清掃行為にどのように落とし込めばいいのかわかるはずがない。求人には「誰にでもできる簡単作業!」と記してあったが、求人詐欺に等しいレベルで難儀な仕事だと思う。

私の場合は、北海道のリゾートホテルでレストランのホテリエをやっていたことやデイケアサービスで働いていたことがあるので、まだなんとかなっていると思う。でも、ラグジュアリーホテルに求められるレベルのホスピタリティというのは、想像を超えていたし、やはり限られた時間内に実現するのはむずかしい。いちおう管理者がチェック作業をしてくれているが、第一に甘えた仕事はしたくない。

(帰りの散歩道、足は痛いけど散歩はやめられない)

そんなこんなで、お金のために始めた清掃バイトだけれど、意外な概念を内面化したうえで持ち帰れそうでなによりである。じぶんの作品を読んでくれるひとのことを想像して、ホスピタリティをもってものづくりをしていきたいと思った。

Written by Aisaka, Chihiro
Copyright LagonGlaner and Author

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