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〈もう一人の僕〉を殺すための小説

公園で一人、小説とは何かを考える

公園のベンチに腰掛けて、一人で物思いにふけっていることがよくある。

散歩に出かける理由は、いつもなんとなくだった。外に出てはみたけれど、ゆく当てもなく、ただ、心の赴くままに、風にひっぱられながら歩くのだ。公園はその先にあった。隅っこで寂しく佇むベンチに、僕も一人ぼっちさ――なんて気取った調子で話しかけてから、ゆっくり座って、ほうっと息をつく。見たところ、誰もいないが、耳を澄ませば、小鳥の声が、ちよちよちよって、小さく聞こえる。足で、ベンチのそばにはえた雑草を少し除けてみれば、ダンゴムシや、アブラムシなどの小さな虫が、驚いた様子で影に隠れる。

どうして僕は生きているんだろう――なんて、大きな概念をむりやり引っ張り出して、頭を動かそうとするけれど、そんな大雑把な言葉じゃ、ぐちゃぐちゃになって絡まった糸屑のような僕の脳みそを動かすことなんかできやしない。頭が痛い。
 僕はすぐに諦めて、遠くにそびえ立った大きな木に視線を動かす。どっしりとした、針葉樹林だ。いつから生えている木かは知らないけれど、多分、この公園ができる前は、別のところに生えていて、業者がショベルカーだかなんだか仰々しい大型車両で運ばれてきたに違いない。きっとそうだ。この公園は確か、僕が小学校の頃にできたはずだから、多分、十年くらいしか経っていないはずだ。――あれ、そんなことないか。ちょっと盛ったな。十五年は経っているか――だとしても、あの木の樹齢は、十五年を大幅に凌駕しているだろう。僕は、この公園の長老様に敬礼をした。あっはは、なんだか気分がいい。……でも、ちょっと経つと、自分のしたことが少し恥ずかしいことだったような気がして、青空を仰ぐ。

――僕は最近、趣味で小説を書いている。最近そのことをよく考える。小説を書くとは何か。

とは言っても、誰に見せるわけではない。ただ、一人でノートに綴っている。お気に入りの万年筆と、お気に入りのノートに、ガリガリと、ひたすら文字を刻んでいる。なんだか、一人で悪さをしているみたいだ。
 思ったことをガンガンと書きつける。僕は今、ほんの出来心で、公園の木に敬礼をした。しかし、その瞬間は興奮して楽しかったけど、いざ、時間が経ってみると、脳みそに〈客観性〉が染み込んでくる。そこに、ぽっかりと現れた〈もう一人の自分〉が、「お前は恥ずかしいやつだ」と言ってくる。
 ノートを開いて、文字を書き殴っているとき、僕はこの〈もう一人の自分〉を殺そうと躍起になっているのかもしれない。きっと、僕自身に、僕を「恥ずかしい」と言わせないために。恥ずかしくなんかない。僕がやることに、恥ずかしいことなんか一つもないのだ。だから、僕は思ったこと、思いついたことを、どんどん言葉にして、並べて、並べ直して、物語る。誰に見せるわけではない小説、というのはきっとこういうことなんだと思う。その瞬間を生きた僕を、誇らしく思うために、出来事を一枚の写真にして映し出すのだ。

もちろん、使う言葉を間違えて、ときどき――いや、いつもかな――ピンボケしてしまうことだってあるけれど……。それでも、言葉にすれば、幾分か〈もう一人の自分〉を撃退できる気がするから、僕は書くことを諦めない。それどころか、次はピンボケなんかしないぞって気持ちが高まってくる。
 そういうわけで、ノートの中に文字がどんどんたまっていく。たまに読み返すと、何を書いてんだ自分って、ちょっと笑いたくなる。でも、嘲笑はしない。なぜなら、それは僕の奮闘の軌跡だからだ。僕が、〈もう一人の僕〉を殺すために書いた言葉を、僕は嘲笑うわけにはいかない。だって――僕の軌跡を読んでいる今も、僕は〈もう一人の僕〉と戦っているからだ。もちろん今も。〈もう一人の僕〉はいつも、僕を脅かそうとしてくるのだ。だから、ノートの中の僕は、共通の敵を持った僕の同志なのだ。僕は、ノートの僕の言葉を、歴戦の戦士の言葉のように受け取る。奮闘の軌跡を知っているからだ。また、僕はその言葉を、仲間の言葉のようにも読む。それで僕は、大変だったねって言って笑いかけるのだ。ときには、その言葉、ちょっとぎこちないぞってアドバイスする。ここは上手く書けてるねって労うこともある。そして――それも書く。またノートが膨らむ。それをまた読む――いつしか、ノートの中が文字でいっぱいになる。そのとき、小説がたくさん書けたなって、ちょっぴり幸せな気持ちに満たされる。

もちろん、小説はこういう私小説ばっかじゃないだろう――って意見したくなる人もいると思う。無論、僕もそう思う。きっと、そんな意見をノートにたくさん書いたはずだ。僕もそれをよく考えた。
 小説には、フィクション性の高いファンタジーや、推理小説、SFとか、純文学まで幅広くジャンルが存在する。僕は、そのどれもが好きだ。時には、「純文学はジャンルなんかじゃ括れない!」って過激派になることだってある。僕は、小説が紡ぎ出す世界観が好きだ。物語空間が好きだ。架空の登場人物が好きだ。小説は狭苦しい現実の足枷から解放されて、言葉は物語を空に運び、天高く飛翔するのだ!
 ――でも、反対に僕はよく考える。これら小説だって、いったい誰が書いているのか――それは紛れもなく「誰か」だ。誰かの言葉だ。誰かが残した――奮闘の軌跡だ。葛藤の記憶だ。作者の、懊悩と吐き気から生まれた、数々の言葉たち――それは、紛れもなく私小説だと思う。私小説であることを放棄することは多分、奮闘の軌跡を嘲笑うことと同じなんじゃないか。というのも、自分が書いたものを忘れるということは、自分が書いたものを〈客観的〉に見つめることである。すなわち、僕こそが〈もう一人の自分〉になるのだ。そして――〈もう一人の自分〉となった僕は、僕が書いたはずの文章を、「お前は恥ずかしいやつだ」と笑うのだ――

一時期、作家と作品は分けて考えるべきだという、「作家の死」という考え方が流行ったことがある。哲学者のロラン・バルトは『物語の構造分析』という著作で、作品の分析において、作家との関連性を過剰に結びつけるやり方を批判し、作品そのもの(著作では「テクスト」と呼ばれている)を読むべきだとして、「作家の死」を宣言した。けど、僕は、それはそれこそ過剰だと思っている。作品と作家は完全には切り離せない。なぜなら作品は、作家の奮闘の軌跡だからだ。少なくとも、書く側の視点に立ってみれば、そうである。僕の場合は、それは〈もう一人の僕〉との奮闘だった。僕は、一生懸命言葉を紡いでいた。僕自身が、僕を「恥ずかしい」と言わないために。絶対に認めるものか。僕は恥ずかしくなんかない! これは、僕の、僕自身の人生なのだ。

気付けば、山の端が少し、赤く染まっていた。遠くで、カラスが寂しそうに鳴いている。春といえど、夜になれば寒い。このご時世だ。風邪をひくわけにはいかない。
 ――僕は立ち上がった。少しばかり、お尻が痛い。さようなら、公園の主よ。僕は、家に帰る。

Written by Koyuki
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