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何者にもならないでいること

ぼくが生活していると「キミ来月からこの肩書ね」とか「キミって〇〇みたいだよね」とか「カクカクシカジカにより、キミの言ったことは暗にこういうことを示しているな」とか、とにかくみんな名前をつけたがる。こんなエラそうなタイトルに、こんなロクでもないイントロを書くと「お前誰やねん」みたいな話になってしまうんだけれど、今回ぼくが書きたいのはこういう名づけによって、どうしようもない喪失感、虚無感、疎外感を感じてしまう(あるいは感じてしまっていた)人に対して優しくありたいっていう意思表示になる。だから先の「お前誰やねん」には「誰でもないで」というのがこの場での返事になる。

日々生活していると、成功者の方々は本当に強い言葉を使いたがるらしい。自堕落で、意識低い系のぼくは、どうもこういう言葉に参ってしまう。ぼくらの周りにはビジネスが溢れていて、ここぞとばかりにマーケティング、ターゲティング、プロモーションを仕掛けてくる。それらの生態上どうしようもないのだが、不特定多数の特定の分野に関心を持ってもらうときは「パワーワード」はとても使い勝手がいい、それにコツを掴めば誰でもそれなりのものが書けるから、安易に使うことを助長しやすい。同様に、成功者の方々がセルフ・ブランディングなどをするときも、ぼくのように意味があるのかないのかわからないような、延々とした文章で輪郭を描いたりせず、わかりやすい言葉でバシッと決めてしまう。それに釣られてか、成功者予備軍になろうとせん人たちもこぞって真似をするものだから、極論ばかりが増えていく。意識せざるとも、そういう極論を目にしてしまうわけだから、ひとまず考えざるを得なくなってしまう。考えた結果、その極論に当てはまることのない、宙ぶらりんの、「何者でもないぼく」はなんだか虚しく感じてしまう。

最初はおかしいなと感じていても、もうそんなのが5年も10年も続いてくると自分がおかしいように思えてくる。そこからは手放しの下り坂で、「いろんな出来事によってもたらされる負の感情は、すべて自分がおかしいからなんだなあ」で解決されてしまう。考える気力がないというのは恐ろしいもので、その時その時で思考の負荷がかからない方向へ考えてしまう(正確には考えていない)。そして、これはぼくの話として続けると、「生きづらいから死にたいなあ」になっていた。親はもちろん頼れなかったし、意識高い系の人たちは一緒にいるだけで体力を吸い取られるし、仕事はなんか忙しいし、本は読めないし、もうぜんぶうまくいかなかった。

そういう最中にいるあいだはなかなか気づけないけれど、今見直すと、どう考えても典型的な認知のゆがみになっている。0か100かしかぼくには無いから、100にならなきゃいけなかった時期がある。100になるために、ありとあらゆる努力をして、汗水流して、寝る時間も削って、インプットは欠かさず行って、話したくもない上司をご飯に誘い上手な相槌を打つことで、どうにかぼくは生き残れた。と、そんなわけはない。意識低い系を名乗っているくらいだから、0か100か主義に陥ったところで数日持てば良いほう、やる気がないから頑張るなんてまったくしなかった。だからといって0に近づいて「あ~、人生終わったな~」とかもならなくなっていた、むしろそういう構図に飽きたというのが一番近い。

思うに、ぼくの絶望は安く、涙はその場限りで思い出に涙を流さず、他人の苦しみに共感できず、空気が読めなかった。

けれど、だからこそぼくは自由であった。


さて、先ほどの話はぼくの経験談になる。こういったn=1程度の体験をひどく一般化し、公式を立てて、成功哲学と恥ずかしげもなく言うことを、ぼくは「オマエの日記」と呼びたい。では、ぼくたちは個々の体験から何を伝えるべきなのだろう? という話に上滑りしてしまいそうになるが、ここは気張ってでも一度立ち止まり、ぼくたちの在り方や、取り巻く世界について考え直してみよう。

ぼくたちの感情は、大原則として出来事という刺激に対して発生する。例えば、付き合って1年になる彼女に別れを告げられたぼくがいたとすると(彼女いません)、ひとまずその日は何も食べられず、落ち込み、もしかしたら泣きじゃくるかもしれない。また、ずっと行きたかったラーメン二郎神田店に並びがなく、スムーズに着席できたとしたらぼくは絶対に喜ぶ。前者は、別れると思っていなかったぼくがあまりの衝撃に悲しんだという構図だし、同様に後者もきっと今日行っても並びがすごくてほかの店になるだろうと高をくくっていたぼくが、期待を裏切られてハッピーになるという図になっている。別れの話にまだ言及していくと、この先起こりそうなのは「どうすれば別れずに済んだのだろう」「最近、彼女に違和感はあっただろうか」「もしかして別の相手がもういたのか?」といった話が考えやすいが、これらの疑問を答え合わせすることは不可能ではないのだけれど、仮にタイムスリップして時間を巻き戻したとしても、その日の別れは避けられるだろうが、いずれ似たり寄ったりな結末になるように思う。シュタインズ・ゲートのシステムを知っていれば、それが近いと思う。

出来事に善悪はなく、それを取り巻く人間との関係性によって決定される。ゆえに、ぼくは出来事と反応の連鎖、関係性をいったん薄めることが、宙ぶらりんのぼくたちがマイノリティだと簡単に言い捨てることなく、存在論的に位置できるのでは、とにらんでいる。ただし、これはおそらく口で言うほど簡単ではないと思う。言うは易し、だ。

反応の連鎖をいったん薄めるというのは、自己という存在の承認欲求レベルを下げるということだ。

どういうことだろうか。ぼくたちの反応の連鎖における各々の反応原理は、基本的にぼくたちが意識しない、いわゆる無意識に沈んでいる。ぼくの数少ない知識の中では少なくとも、大正3年に夏目漱石が強烈な自己意識、つまり誰かに見られるということを想定した自意識、承認欲求を題材として公演をしている。つまりそれは、100年前から私たちは承認欲求や自意識で頭を抱えうる状態だったということだ。100年程度で日本人の感性が転回することもないだろうという楽観と、当たり前のようにソーシャルネットワークがぼくらの手の中にあり、簡単に人の目に晒すことができる承認欲求が充満する世界で、ぼくたちは意識せざるとも「誰かに見られている」。その先には「こういう風に受け取ってもらいたい自分」というものが暗に存在するし、だからぼくたちの承認欲求のレベルを何段も下げ、あるいはそこから降りてしまって承認欲求という前提自体を崩してしまおう、というのがぼくの次の狙いになる。

では、この承認欲求レベルを下げ、むき出しの自分を取り戻し、オモテ面の世界からオサラバする方法をお伝えしたいところだけど、無理だ。正直なところ、システマティックな方法によって、すなわち小手先のテクニックによってどうにかできる話ではないし、ぼく自身どんな風にやってたかわからない。だからといって難しく考える必要も実はなく、「こう見られたかった自分」に向き合えばよい。

例えば外国語が話せなくとも思い切ってよく知らないところ国に飛び込んでみたり、出来ない言い訳をする前にやりたかった勉強を1か月缶詰でやってみたり、難しそうな本の読書会を主宰してみんなで輪読する機会を設けるとかをやってみるなど、承認欲求を求めている段階で避けてきたことに、挑戦するのがひとつ手段だ。ぼくのように頭でっかちになると、口は達者だけれど実践が伴わないなんてザラにある。そういう自堕落な自分でも、どうにかして実践に舵を切らねばならないときがたまにある。根性論になるけれど、「ありたい私」から「私以外の誰か」になろうと手段は問わずやり切ってみるということが「私」を降りることにつながってくる。

自意識という承認欲求からオサラバしはじめると、ぼくたちは「私」という単色から解き放たれ、あらゆる知識や情報や経験が「私ではないワタシ」を媒介として色鮮やかにつながり始める。それはすなわち、アナロジーを作動させるという意味になる。「私=私」という承認欲求から降りるということは、ニュートラルな状態を獲得し、何処かに固定されることなく主客未分の位相に漂うことになる。アナロジーを作動させた「私でないワタシ」は、新たなるプラットフォームで、今までとは別な、新たな身体をつくっていく。

それは、孤独な作業だろうか? いえいえ、この文章を読む人がいて、どことなく引き寄せられる人がいるかもしれないように、そういう人をぼくたちはこれから「わかってしまう」のだ。だからぼくたちは、ひとりではない。

思い切って「私」の外に出よう。

Written by Nekondara
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